「備えあれば憂いなし」ルカ12:32-40中村吉基

創世記15:1-6;ルカによる福音書12:32-40

「小さな群れよ、恐れるな」。

この主イエスの言葉は弟子たちに向けられて語られました。その当時の主イエスの一門は、吹けば飛ぶような小さなグループでした。そのころのユダヤ社会にはすでに大きくて力のあるグループがたくさんありました。律法学者やファリサイ派、神殿で権力を持つ祭司長、議会と結びついた長老たち、ユダヤの社会では馴染みのある人々であり、社会に生きるほかの人々にも影響を与えていた人々です。ところがそれに比べてイエスの宗団はとても小さなもので、数からしてもそれらの大グループとは比較になりませんでした。社会の中での彼らの影響力はほとんどゼロに近いものでした。

弟子たちには、さまざまな人々がいましたが、極めて人間的な見方をすれば、インテリがいたわけでも、力のある人がいたわけでも、エリートがいたわけでもなかったのです。むしろこの世の中では、軽んじられてきた人や取るに足りない、無に等しい人々があえて主イエスに選ばれていきました。そういう弟子たちは、既成の大グループから弾き飛ばされて、押しつぶされたりする可能性もありましたし、人々からも無視されるということも考えられました。

弟子たちは何の経験も積んでいませんでした。ですから困難なことばかり起きたのです。今日の箇所の直前にあるところで主イエスが「思い悩むな」と言っておられますけれども、それは左右、前後のどこにも困難という「壁」が立ちはだかっていたからです。そしてその壁をどう乗り越えていったらよいかもわかりませんでした。またそのような力があるかどうかも弟子たちには判りませんでした。そして主イエスと弟子たちのグループはこれから大きな群に成長できるかどうかも判りませんでした。そこで主イエスは弟子たちを励まして、彼らに勇気を与えたのが今日の福音のことばです。

「主人は帯を締めて、この僕(しもべ)たちを食事の席に着かせ、そばにきて給仕してくれる」(37節)。

何か不可思議な感じがします。真夜中に帰ってきた主人が寝ないで待っていたしもべたちに給仕をするとは、考えられないことだからです。私たちには当時の風習はよく判りませんが、それでも不可解です。主人はやさしい人であったかも知れませんが、普通ならせいぜい「遅くまで待っていてくれてご苦労様、早く床に着きなさい。」というくらいではないかと思うのです。それではなぜ、このようなたとえを主イエスは話されたのでしょうか?

「主人が…そばに来て給仕をしてくれる」また、32節の後半、「あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」。主イエスに「思い悩まなくていい」と言われた弟子たちにはさまざまな悩みがありました。時には行き詰まることだってあったはずです。もうこれ以上先に進めないという状況もあったでしょう。希望を持つこともゆるされないような気持ちに追いこまれたでしょう。しかし、どんな悩みの中にあっても、確かなひとすじの光があります。真っ暗闇の中に輝いて、消えることのない確かな光に気がつくときに、希望を持つことができるのです。どんな状況に置かれても彼らを愛し、彼らのことを忘れない神がおられます。弟子たちに神の国が与えられるのは、神のみこころ、すなわちご意志です。

「あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」。という箇所を「あなたたちの父はあなたたちに王国を与えることをよしとされた」(佐藤研訳)と訳しているのは岩波書店から出ている聖書です。神が約束をして、保証してくださることを示して、主イエスは弟子たちに力を与え、励まし、大胆で勇気ある行動をするように彼らを促しました。33節「自分の持ち物を売り払って施しなさい」。小さなグループが大きな影響を与えるためには誰にも判りやすい方法で、パッと眼を引くような表現が求められます。「自分の持ち物を売り払って、貧しい人に施す」というこんなに単純明快な神の愛の証しはないでしょう。

一昨日ここで先週天に召されたUさん葬りの営みを行なったばかりですが、Uさんは、教会の交わりはそこそこにして、主日礼拝が終わるとすぐに、山谷の日雇い労働者のもとや桜町病院のホスピスに一人出掛けていたといいます。まるで主イエスのあの「サマリア人のたとえ」の終わりに「行って、あなたも同じようにしなさい」(ルカ10:37)という声を聴いたかのようにして、神の恵みと愛を携えて出かけておられたのです!

弟子たちは主イエスを中心に、自分の賜物をささげ合って生きました。自分のすべての時間、すべての力、すべての思いを主イエスのためにささげたのです。「小さな群れよ、恐れるな」という福音のことばを、私たちの教会に今、語られている言葉であると信じます。最初の弟子たちと同じように、小さなグループであり、その力は微々たるものです。街を歩く人々は私たちの存在にはほとんど気付くことがありません。一年以上前、教会の前の道を降りた上原中学の横の道で、教え子に会いました。その生徒はS中高のあたりに住んでいて千代田線で通学するために、毎日代々木上原駅への道を往復していました。私はすかさず、「この道の曲がったところに教会があるのを知っている?」と訊いたところ、その生徒は「17年間気づかなかった」と云いました。私はちょっとだけ心が折れました。そこから「ここにも教会がある」ともっと宣教しなければならないなと奮起したのですが、その一つが今月取り付けたばかり教会の電柱広告に結びつきました。数日前教会の場所がよく分かったと訪ねてきた人がいましたけれども…!

19世紀のイギリスの著名な説教者であり牧師であるスパージョン(スポルジョン)という人がこういうことを言っています。

 神があなたをこれまで以上に高い次元の霊的生活に導こうとされるときはいつも、まず挫折をお与えになります。神は食物をお与えになる前に空腹にしてくださいます。衣服を与える前に裸にしてくださいます。あなたを用いる前に、砕いてくださるのです。神がヤコブのもものつがいを打ってそれをはずした後にこそ、ヤコブは「神の王子」となりました。

私たちもまた、この現代にあって主イエスの弟子とされているものです。「自分の持ち物を売り払って、施しなさい」(32節)との主イエスの命令に従って行く者でありたいと思うのです。今、カルト宗教の報道も盛んに行われている中で、この「持ち物を売り払う」とは単に経済的なものだけを指すのではなく、自分の力、時間、賜物を持って奉仕するということでもあると思うのです。ですからこの言葉の解釈は今日いろいろなものがあるでしょう。ただ単純に貧しい人に施しをするということのみに留まらないかもしれません。自分の置かれた生活の場のできる範囲で(しかし「できる範囲で」と言うと人間は易きに流れてしまって、自分のことを優先してしまって「身を削って」までのことはしないでしょう。その誘惑に陥らずに、少し、厳しいまでのことを考えたほうか良いかもしれません)、さまざまなことができるのではないでしょうか。

私たちには、たくさんのものが与えられています。よく私たちは口を開けば「忙しい、忙しい」とい言ってしまうものですが、それはあなたという人にたくさんのものを与えられているからではないでしょうか。「私の力をささげる」「私は時間をささげる」「私は賜物をささげる」それは人によってさまざまでしょう。そうしていくことから教会の足腰は鍛えられていきます。

最後に、今日の箇所の後半で「主人が自ら給仕してくれる食事」とは神の国であずかる宴を示しています。主イエスご自身が備えてくださるパーティーです。この救いの宴にあずかるその日まで、主イエスは弟子たちを励ましています。実は私たちは完全ではないにしても主イエスの給仕してくださる食事を礼拝において経験しています。それは最後の晩餐の折に、主イエスは自ら一人一人の弟子たちの足を洗い、私たちの救いのための新しい食事(聖餐)を制定されました。この食事はすべての人が招かれている救いの宴を先取りして祝われるものです。そこで神は永遠の命に至る糧を私たちに分かち合ってくださいます。すべての人が神にあってその喜びに与る日まで今日も礼拝をささげています。それは私たちが普段の生活の中で、備えて生きるためであり、大きな希望を信じて生きるためです。神は私たちに主イエスの来臨の日に備えていなさいというのです。それは私たち各々がすべきことであり、誰かがやってくれるというものではないのです。