代々木上原教会一覧

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「わたしを思い出してください」ルカ23:35-43 中村吉基

ゴルゴダの丘の上の3本の十字架のうち2本は悪事を働き死刑宣告を受けた二人の罪人もので、もう1本はイエスのものであった。罪人のうちの1人は、他の律法学者、議員や兵士と同じように「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と罵る。しかしもう1人はイエスが救い主であることをすぐに信じたのか「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」といい、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言う。イエスはそれに対し、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言う。その罪人がどのような人生をおくってきたのか一切問わず、心をいれかえ神へと方向転換しただけで救いの手を差し伸べられたのである。この「楽園」という言葉はパラディソス、エデンの園、つまり神と人とが結ばれて平和に暮らしている世界、それが楽園である。力をなくした状態の中でも、神が共にいてくださることに気づいたときそこはもう楽園である。受難週にあたり十字架に架けられたイエスが「父よ、彼らをお赦しください」と祈ったことを憶え、我々も「自分自身を傷つけた人」をゆるし、私たちが神のみ前でゆるすのはいったい誰なのかを考えよう。その時、我々は憎しみから解放されるのである。

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「ラザロ、出てきなさい」ヨハネ11:28-44 中村吉基

先週引き続きラザロである。ラザロの死後到着したイエスに姉妹のマリアは「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」という。マルタと同じである。しかしイエスは「もし信じるなら。神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言い、天を仰ぎ「周りにいる群衆のため」と祈り、「ラザロよ、出てきなさい」と言われた。すると、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていたラザロがでてきたのである。現代の私たちにとって「巻かれている」(言語では繋ぐ、縛るのような意味もある)というのはとても厄介である。ガラテヤの信徒への手紙5章1節でパウロが書いているように「「自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由にしてくださった」のである。ラザロはキリストによって巻かれていたものを取り払われた。これと同じように私たちも今日イエスはが名前を呼んで下さり、「出てきなさい」と、闇の中から光のあるところへと引き戻してくださる。病の中でも、失望の中でも、キリストがあの重い十字架を背負い、今この時も共に苦しんでくださっている。しかしマルタとマリアのように「主がいて下さったら、こうならなかったのに・・・」と不満を持ってしまっていないだろうか。主は今日も光の中を歩んでほしいと強く願い、「出てきなさい」という呼んでくださっている。

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受難節第5主日礼拝 2023/03/26

本日の礼拝 旧約聖書:創世記2:4b-7、 新約聖書:ヨハネによる福音書11:28-44  説教:「ラザロ、出てきなさい」中村牧師  本日の集会 教会学校:9:00(ティーンズ科第2・第4主日9:5...

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「あなたを揺り動かす愛」ヨハネ11:1−27 中村吉基

私たちは死後お墓の中で不自由な生活を恐れるが毎日の生活の中での絶望もまた墓場の状態である。主イエスはその墓場から神が造られた素晴らしい世界へと引き戻してくれる。今日の箇所で、ラザロの病を聞いたイエスは2日間とどまりラザロは死んでしまい、マルタや他の人々は「もう少し早く居てくだされば・・・」と口にする。私たちの祈りが届かなかった時のようである。主イエスは神がお定めになった「時」をじっと待っていたのである。長い人生の中には計画どおりにいかないことがあるが神が自分のために何もしてくれないのではなく、神が働いてくださる時が用意されているからである。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか?」という言葉がある。今日も主イエスはこの問いを呼びかけておられる。「はい、信じます」と心から応答する私たちでありたい。

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「私だけではなく、私たちすべてが」ルカ11:1‐13 中村吉基

弟子たちに請われてイエスが教えた祈りが、「主の祈り」である。ここに一番でてくる語は「わたしたち」である。「私ひとりの祈り」ではなくみんなの祈りだという教えである。それは旧約時代の共同体意識、神と民たる私たちとの考え方である。「必要な糧」という祈りも、栄養失調のために死亡する子どもの数が多かったこの時代に「わたしだけの糧」ではなく「わたしたちの糧」を祈っている。主イエスが食事をする場面はたくさん出てきますが、いつも誰かとパンを分かち合っておられる。今日の箇所では、どのような心で祈るべきかの教えもある。それが「求めなさい、そうすれば与えられる」である。忍耐強く「たたき続ける」ならば必ず門は開かれ、求めるものは与えられる。この箇所は物乞いの振る舞いを描写していると言われる。最下層に置かれていた社会的弱者と飲食をともにし、願いに応え、やがて彼らがいきいきと生きていくことができる共同体を生み出していく行動に結びついての祈りである。このことはいかに神が私たちを愛してくださっているかを思い起こさせる。この祈りを通して力を与えられている。それを人びとに運んでいくのが私たちに託された務めである。

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「神の国はあなたたちのところに」マタイ12:22-32中村吉基

口の利けなくなっていた人が主イエスによって癒される奇跡をみて、人々は「この人はダビデの子(待ちに待った救い主)ではないだろうか」と驚く。イザヤ書35章にある神の約束が主イエスによって実現した時でもあった。主イエスの人気が高まり行く先々に群衆は押し寄せるほどとなると、疎ましく思ったり、妬んだり、ストレートに大嫌いだとする人もでてきた。ファリサイ派もその一例である。彼らは奇跡は認めるが、その力を神ではなく悪霊の頭のものであると主張した。そうではないと、イエスを救い主と認め自分たちの権威を捨てなければならないからである。しかしイエスは「サタンがサタンを追い出せば内輪もめではないか」と反論し、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのかとも訊く。ファリサイ派は考えを新しくすることを恐れ神の力を悪霊の力としたが、それは聖霊への冒涜なのであると次の箇所に続くのである。イエス・キリストと私たちの出会いは、私たちの側が変化することが求められる。受難節が始まる灰の水曜日に「ちり」からできた存在であることを確認し、御独り子を与えるほどにこの世を愛し、十字架の死からご復活まで神の栄光を見せてくださった神に、罪をわび、ゆるしていただく。また謙虚さが足りないときにじっくり黙想をして神に方向転換をする力をいただきたい。「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」という言葉を信じて歩いて行こう。

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受難節第2主日礼拝 2023/03/05

本日の礼拝 旧約聖書:イザヤ書35:1-10 旧約聖書:マタイによる福音書12:22-32 説教:「神の国はあなたたちのところに」 中村吉基牧師 本日の集会 教会学校:9:00(ティーンズ科第2・第...

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「世直しへ召された者の心構えと佇まい」 マタイ10:5−15 陶山義雄

マタイ福音書第Ⅱ説教集の3回目のテーマは弟子派遣にまつわるテキストであるが、受難節第1主日に相応しい内容を備えている。まず、我々がここに在るのは宣教者の働きによるものである。彼らは遣わされる際に様々な困難に対しての備えと心の準備をしている。マタイを含めて他福音書にある同じ「12弟子派遣の説教」の記述を参照しながらイエスが話された御言葉に迫って行きたい。マタイ記者は当時のユダヤ教に対抗する思いをもって教会の働きを描こうとしているので、現実から、またイエスの言葉からもかけ離れてしまっている点がある。世直しへと召された者の佇まいとしてイエスの教えは、清貧の出で立ち、極貧者のような佇まい、それは救いを待ち望んでいる人々と同じ姿になる事に尽きる。イエスが弟子を遣わす際に語られた言葉は、今も私達と教会に生きて働く言葉である。そしてイエスの第一声で、弟子たち伝えるべきメッセージ「天の国は近づいた」は我々が心に明記すべき救いの知らせ、福音である。

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「全世界を手に入れても」マルコ8:31-38 廣石望

ロシアによるウクライナ侵攻や、かつての満州でも巨大な権力の支配欲の暴走である。かつてのイエスの死もローマ帝国による「全世界を手に入れる」ことへの欲望があった。本日の礼拝では、マルコ福音書の受難復活予告を含む段落を手がかりに、弱い者たちの上に避けようもなく降りかかる暴力がどう理解されたのか、私たちに何ができるのかを、ごいっしょに考えたい。

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「『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』」マタイ5:37、26:52 中村吉基

2/11は日本のプロテスタント教会の「信教の自由を守る日」。明治政府が日本書紀の記述をもとに天皇中心の歴史観で1872年に定めた紀元節は、第2次世界大戦後は廃止されたが1967年から「建国記念の日」として復活した。日本キリスト教団は戦時に体制側に擦り寄り信仰を捨て戦争に加担した反省があり同年のイースターに「戦争責任告白」を発表し、同日を「信教の自由を守る日」とした。今日の箇所「あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい」は「誓ってはならない」に続く言葉である。当時の誓いは身を滅ぼし命がなくなるようなものもあり、イエスはそのような事に神の名をみだりに使って誓うことなどは傲慢だと指摘した。命や物質的なものすべては神から預けられたものであり、自分の好き勝手にしていいものではない。命は仕事や国に捧げていいものではない。私たちには「拒否」する自由も与えられている。防衛費を増大させ、かんたんに戦争に加担するような国に対して決して無責任・無関心になるのでもなく「イエス」か「ノー」かを積極的に選び取り行動を起こしていきたい。