「全世界を手に入れても」マルコ8:31-38 廣石望

アモス書5:21-24;マルコによる福音書8:31-38

I

 今年の受難節が、今週22日の「灰の水曜日」から始まる。

 もうすぐ、ロシアによるウクライナ侵攻が開始されて1年になる。この間、およそ考えられないほどの剥き出しの暴力が、当地で荒れ狂っている。独立した隣国への一方的な軍事侵攻、一般市民の虐殺と拉致、民間インフラへの攻撃、占領地域での住民投票と領土編入、囚人を最前線に動員する民間軍事会社、原発の軍事拠点化と核兵器使用の威嚇など。戦闘の激しい地域の住民の多くは、ふるさとから逃げ出すしかない。ウクライナの人々の苦しみの原因はロシアの一部エリートがもつ支配欲と、それに迎合する国民にあるだろう。

 最近、稲毛幸子(いなげ・ゆきこ)著『1945わたしの満州脱出記――普及版 かみかぜよ、何処に』(ハート出版、2022年)を読んだ。彼女は1923年の生まれだ。第二次世界大戦の末期、旧・ソ連軍が不可侵条約を一方的に破棄して旧・満州国(中国東北部)に侵攻した結果、当地の日本人入植者の社会は大混乱に陥った。20代前半の彼女は、逃亡による生活困窮と極度の栄養失調の中で、二人の幼い娘を次々に失い、自身は片目の視力を失った。彼女と夫は避難先の新京(現在の長春)で、埋めておいた長女の遺骸を掘り起こし、死んだばかりの次女とひとつ布にくるみ、火葬場でお金を払って焼いてもらい、その骨を日本に持ち帰った。彼女の苦しみの直接的な原因は、ソ連軍侵攻にある。しかしその背後には、満州国という傀儡国家を作り、中国東北部を支配しようとした当時の日本政府と軍部の支配欲がある。

 どちらの場合も、巨大な権力の支配欲の暴走が、一般市民を筆舌に尽くしがたい苦しみに陥れている。

 かつてのナザレのイエスの死の背後にも、ローマ帝国による「全世界を手に入れる」ことへの欲望があった。そもそもヘロデ王家はユダヤ民衆が選んだ王でなく、ローマ皇帝と元老院によって立てられた傀儡であった。イエスの生きた時代、ユダヤ地方はローマ直轄領に移行し、ローマ人のユダヤ長官が着任した。イエスの処刑を命じたのもその一人ポンティウス・ピラトゥスだ。宗教的にも、多神教のローマは、ユダヤ人の一神教を必ずしも尊重しなかった。イエスの死後ではあるが、皇帝ガイウス・カリグラは、エルサレムのヤハウェ聖所に、自分の立像を安置して礼拝行為をさせようとすらした(紀元39-40年)。

 わたしたちの国では昨日、隣国から、またもや大陸間弾道弾が日本海に向けて発射された。やり方によっては米国全土を射程に収めることができるという。暴力による威嚇は止むことがなく、その犠牲者はいつも一般民衆だ。

 本日の礼拝では、マルコ福音書の受難復活予告を含む段落を手がかりに、弱い者たちの上に避けようもなく降りかかる暴力がどう理解されたのか、私たちに何ができるのかを、ごいっしょに考えたい。

II

 先ほど朗読した聖書箇所は、マルコ福音書の第1回受難復活予告と呼ばれる。

 この福音書では、ガリラヤからエルサレムへの途上にあるイエスが、合計3回、受難復活予告を行う。それらは福音書のストーリーの中に注意深く配置されており、キリストを正しく理解するには、彼の受難と復活の視点からそうするよう教える。

 私たちの箇所、つまり第1回予告の直前には、ペトロによるキリスト告白がある(8:20)。これに対してイエスは受難復活予告を行い、それに続けて〈自分の十字架をかついで私に従え〉(8:34)と教える。イエスを「キリスト」と告白するだけではまったく不十分であり、彼を受難と復活から理解することには、弟子たちによる十字架の信従が対応する。

 第2回予告(9:30-32)は、悪霊祓い奇跡(9:14以下)と〈誰が一番偉いか〉という弟子たちの論争(9:33以下)に挟まれて現れる。自分たちにはできない奇跡を行うイエスのことが、弟子たちには自慢なのだろうか。しかし、イエスが非業の死を遂げ、不可思議な復活という運命に至ることの意味が、彼らには理解できない。その弟子たちに、イエスは「君たちは万人の最後の者、万人の奉仕者になれ」と言う。ここでも、キリスト理解が弟子の倫理、生きる姿勢と照らし合わされる。

 第3回予告(10:32-34)も似ている。直前で弟子たちは、すべてを棄ててイエスに従ったことへの報酬は何かと尋ねる(10:26以下)。そして3度目の受難復活予告に続いて、兄弟である二人の弟子がイエスに「あなたの栄光にさいして、わたしたちをナンバーツーとナンバースリーに指名して下さい」と願い出て、他の弟子たちの怒りを買う。弟子たちは、自分たちのグループ内部でもマウントを取ろうとしている。これ対してイエスは、再び「君たちは万人の奴隷であれ」(10:44)と教える。

 そして、あたかも3つのステップを総括するかのように、イエスは言う。

人の子もまた仕えられるためでなく、仕えるために、そして彼の魂を多くの者たちの身代金として与えるために来たのだから(10:45)。

 ここでは、戦争捕虜や誘拐された親族を釈放する、あるいは奴隷を解放するために代金を支払うという、人身取引や人身売買のイメージが、イエスの生の意味を表現するために用いられている。イエスの生の目的は他者に奉仕することで、支配や隷属からの解放を万人にもたらすことにあった。

 そのことは、弟子たちが自ら十字架を背負い、万人の奉仕者ないし奴隷となって生きることでイエスに従うとき、初めて理解できるようになるのだろう。

III

 第1回受難復活予告を含む今日のテクストを、改めて見てみよう。

 前半(31-33節)では、第1予告をするイエスをペトロが叱り(新共同訳「いさめる」)、そのペトロを弟子たちの前でイエスが叱り返して、「君は神のことでなく、人間たちのことを考えている」と言う。

 予告文の主語「人の子」はイエスのこと、「復活する」と訳されたギリシア語の原義は「立ち上がる」(旧約でも使用される)である。「必ず~することになっている」と訳されるギリシア語は「~ねばならない」という非人称動詞で、「それが神が定めである」というほどの意だ。

 この予告は、生前のイエスが、受難と復活を弟子たちに預言したように響く。しかし、イエスの顕現伝承の中に「待ってました!」という弟子たちの反応はまったくなく、むしろ皆が驚いたり当惑したりしていることに照らして、歴史上のイエスの発言ではないだろう。そもそもイエスの壮絶な処刑死は、「ちょっと死んで来るから、三日だけ待っててね!」というようなものではない。受難復活予告をしているのは歴史上のイエスでなく、福音書の主人公「イエス」だ。その機能は、読者に向けた、イエスを本当に理解するには、受難と復活の部分まで読んでほしいという指示だ。

 ペトロとイエスの叱りあいは、ふつうは「先生、そんなことがあってはなりません」というペトロを、イエスが「サタンよ、引き下がれ」と叱ったと理解される。そうかもしれない。しかし「引き下がれ」と訳されるギリシア語の原義「ここへ(来い)、私の後に(従え)」は、イエスが弟子を召命するときの言葉と同じだ(例えば1:17)。なので、「神のこと」よりも「人間のこと」を優先するペトロの態度の背後に、サタンの働きを見たイエスが、神の計画を邪魔だてせず私について来い、と言っているのかもしれない。

IV

 後半(34-37節)では、イエスが弟子たちに加えて群衆に向かって、〈私に従いたい者は自分の十字架を背負いつつ従え〉と教える(34節)。この発言は、さらに3つの言葉によって説明される。

 第一の〈自分の魂(命)を滅ぼす(失う)者こそがそれを救う〉(35節)という言葉は、まるで禅問答のようだ。理解のためのポイントは「私と福音のゆえに」にある。イエスの人格は「福音」と同一視される。それは、受難と復活の神の息子イエス・キリストについての告知だ。マルコのイエスは、自らの復活の命の運命を示しつつ、弟子たちに自分を否認しつつ命を棄てる覚悟を求める。じっさいイエスは、〈身体を殺してもゲヘナで命まで殺すことのできない者を恐れるな〉と教えた(ルカ12:4-5並行)。

 続く第二の〈全世界を手に入れても、害を受けた魂(命)の代価など、この世に存在しない〉(36-37節)という発言も、それ自体としてみれば格言的だ。しかしこの文脈では、死を覚悟しつつイエスに従うことで、真の「命」に到達するよう目指すことが、「神のこと」に属するという意味だろう。

 最後にある第三の〈いま私(イエス)を恥じる者を、人の子もまたその栄光の到来にさいして恥じるだろう〉(38節)という言葉には、歴史のイエスの言葉が残されていると言われる。その出発点は、紀元前2世紀後半に成立したダニエル書の預言にある。そこでは、この世界の終わりに〈神がイスラエルに世界支配を託し、全世界を平和に導く〉という希望の象徴として、「人の子のような者」の到来について語られる(ダニエル書7:13)。それを受けて、後代に発展したユダヤ教黙示思想では、「人の子」は最後の審判の執行者、神の右腕だ。イエスはその伝統に立ちつつ、「人の子」の先駆けとして「神の王国」を告知した――奇跡をおこない、「罪人たち」と交わりの食卓を祝い、譬えを語ることによって。

 現在あるマルコ福音書には、「彼の父の栄光のうちに(人の子が)聖なる御使いたちとともに来るとき」とある。イエスは「神の息子」であると同時に、今は天に昇ったことで、やがて世界審判のために天から到来する「人の子」と同一人格であると理解されているのだろう。

 こうした理解を総合しつつ、後の古代教会では、例えば使徒信条にあるように、イエスは「天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこよりきたりて生ける人と死ねる人をさばきたまわん ascendit ad caelos, sedet ad dexteram Patris omnipotentis, inde venturus est iudicare vivos et mortuos」という告白が形成された。

V

 この世界で相変わらず、弱い者たちの上に避けようもなく降りかかる暴力を、どう理解できるだろうか。また、私たちに何ができるのか。

 ロシアによるウクライナ侵攻は、近現代国家による戦争を回避する努力の歴史をあざ笑うかのようだ。他方でマルコ福音書を生み出した人々は、現代の米国や国連、あるいはEUやNATOのような巨大組織ではない。彼らは社会の中の圧倒的な少数派だ。なので、自分たちに降りかかる暴力を回避できるとは、おそらく考えていない。「自分の十字架を背負って私に従え」と言われるのはそのためだ。

 それでも彼らは見据えていたのは、暴力の彼方にある「命」だ。ノーベル文学賞作家である大江健三郎の小説『燃えあがる緑の木』(1993-95年)は、私から見て、文学的想像力に基づく原始キリスト教成立史の再話だ。その中で彼は「人間存在の破壊されえないこと」について語る。その希望を原始キリスト教は、イエスの昇天神話に託したと言えるだろう。暴力による死を通り抜けて神の命に達したイエスが、すべてを判断するという希望だ。

※聖書引用は、部分的に説教者による日本語訳です