「世直しへ召された者の心構えと佇まい」 マタイ10:5−15 陶山義雄

マラキ書3:19−24;マタイによる福音書10:5−15

 前回、代々木上原教会で講壇に立ち、説教を担当したのは、丁度1年前の2022年2月27日のことでした(参照)。当日はマタイ福音書第Ⅱ説教集をテキストにして、その2回目の講解説教でした。それはマタイ福音書の第Ⅰ説教集である「山上の説教」・講解が終わり、しばらく間を置いた後に、始まったマタイ10章で繰り広げられている第Ⅱ説教集・「12弟子派遣の説教」に入ったところでした。ちなみにその第1回講解」は2022年2月20日の礼拝で、第Ⅱ説教集の序文にあたる9章35節から38節をテキストにして「教会へ託された3つの働き」と題してご一緒に学ばせて頂きました。その3つとは「会堂で教え」、「福音を宣べ伝え」、「病いと患いを癒す」こと(Teaching, Preaching ,Healing)でありました。弟子たちに託されたその勤めについて、本日のテキスト10章7節と8節にも言葉を変えて語られています。

 今日は、受難節第1主日、先週の2月22日水曜日が「灰の水曜日」で、この日から復活節にいたる40日間は主の十字架を辿りながら、主のご受難と復活に与かるレントの時節が始まります。通常であれば、受難物語をテキストにして礼拝を守ることが多くあるのですが、主の十字架を担う弟子たちと教会の歩みの中にも、主の受難を偲ぶ出来事は数多く記されており、本日、第3回目の「弟子派遣にまつわるテキスト」は受難節に相応しい内容を備えておりますので、順序を変える事なく、これをテキストから主のご受難に与かりたく思います。 

 今、私達がここに在るのは、本日のテキストで語られているような宣教者たちの働きによるものであることを、先ず、共に銘記しておきたいと思います。イエスの働きがあり、それを伝え,受け継いだ弟子達がおり、口伝えや文書に書き記した人々がおり、御言葉を述べ伝えた宣教者の働きを介して、凡そ2000年の歴史を重ねながら、福音が私達の許に届けられているからです。本日のテキストは通常、イエスによる「12弟子・派遣の説教」と呼ばれています。出だしから、かなり厳しい事が言われています。マタイ福音書の読み方として、山上の説教講解を1年以上にわたり、見つめて来た私達ですから、もう既にお分りになっておられると思いますが、マタイを含めて他福音書にある同じ「12弟子派遣の説教」の記述を参照し、それぞれの福音書記者の特徴や用途を洗い分けながら、イエスが話された御言葉に本日も迫って行きたいと思います。

 イエスは弟子たちが、各地に遣わされて行く時、様々な困難を予想し、それに対応できるように心の準備と、実際に必要な備えを語っておられます。マタイ記者は旅に必要な持ち物や心構えに入る前に、マタイにとっては重大な異邦人への宣教問題を先ず掲げていますが、これはマタイにしかありません。しかも、かなり排他的に聞こえます:「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。」(10:5~6)この言葉にはマタイ記者の特徴が良く現れています。マタイが異邦人伝道に対して消極的であったわけではありません。幼子誕生物語の中に東方から訪ねて来た3人の博士を載せています。また、この福音書の結びの所では、復活の主が弟子達を前にして最後の託宣をしていますが、そこでは「あなたがたは行ってすべての民をわたしの弟子にしなさい」(28:19)という言葉で福音書を閉じています。ユダヤ人であり、ユダヤ教ラビの道を歩んでいたマタイ記者がキリスト者となった訳ですが、異邦人に対する優越性や誇りからは未だに脱却出来ていない様子が、彼の挿入したこの言葉からも伺えます。もちろん、イエスはこのような言葉を語られた筈もありません。「良いサマリア人の譬え話」をお作りになる方である事を思えば、納得して頂けるのではないでしょうか。

 旅に必要な持ち物について忠告を語り始める前に、マタイ記者は弟子たちが遣わされて語るべき宣教内容について語らせています:「行って『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。」(10:7)イエスがヨルダン川で洗礼者ヨハネからバプテスマを受けた直ぐ後に、イエスがガリラヤで行った宣教の第一声と同じ言葉がマタイ記者によって、改めてこの場所で繰返されています。次の8節はマタイが好むイエスの働きについての総括が置かれています。これもマタイ福音書にしかありません:「病人を癒し、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。」この言葉はマタイ記者がイザヤ書35章5~6節から援用して、イザヤの予言がイエスの業によって成就したことを表すために福音書記者が作成した言葉で、次の11章4節でも使われています。「行って見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。『目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死人は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされる。』」

続いてマタイ10章8節後半の「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」。この言葉はパウロが3回目の伝道旅行でエフェソの人々に別れを告げる、有名な告別説教の結びの言葉にも繋がっているように見受けます。使徒言行録20章34、35節(255頁)にありますが、17節から始まる告別の説教を全部お読みしたい所ですが、時間の関係もあり、結びの始まりである20章32節以下をお読みします(新約255頁):

「そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。わたしは、他人の金銀や衣服をむさぼったことはありません。ご存知のとおり、わたしはこの手で、わたし自身の生活のためにも、共にいた人々のためにも働いたのです。あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また、主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』(20:35)と言われた言葉を思い出すようにと、わたしは何時も身をもって示して来ました。」

この言葉のように、パウロは伝道旅行の最中も、生活に必要な経費を殆ど自分で賄って来たことが分かります。彼の職業は天幕・テント造りと修繕の職人でありました(同18:3)。イエスは大工の子であり、父・ヨセフが早世したので、母と兄弟を養うためにも大工を継いでいたと思われます。伝道にかかる諸費用と生活費は先ず自弁であったようです。ところが、マタイ記者は「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」と言って、伝道にかかる必要経費を受け入れる側で用意するのだから、宣教者の側から相手に請求などしないように諭しています。これは、教会が制度として伝道がかなり整った時代の話であり、イエスやパウロの時代にはそうではなかったことがわかります。つまり、このような勧めはイエスの言葉ではありません。ことによるとマタイ記者の教会でもこれほど整備されていなかったかも知れません。と云うのは、この後、マタイ記者によって語られる宣教者への戒めも、余りにも現実離れをしているからです。そもそも、イエスは旅に行く弟子達へ清貧の覚悟を求めて、必要最低限の所持品を挙げておられます。それは、杖1本、履物1足、それに下着は1枚で足りるよう教えています(マルコ6:8~9)。ところが、マタイ記者は袋も、履物も、杖も持たずに旅立つ勧めを語っています。それは、最早、非現実的に聞こえます。ラビ出身で、マタイによれば徴税人であったマタイにしてみると、清貧の托鉢など体験さえしたこともないので、過激で実行不可能な勧めに仕立て上げています。こうした過激な修正は山上の垂訓でも見られた所です(6:26など)。帯に財布を入れて持つ以上は最小の銅貨(クオドランスやレプタ)数枚ぐらいは許されていたのですが、マタイは、托鉢者なら持つこともなかった筈の、金貨や銀貨まで加えた上に、許されていた筈の銅貨を含めて、一切お金を持つことを許しておりません。他福音書の記述によれば、許されていた銅貨さえも持たずに旅立つ勧めに改めています(10:9)。マタイ記者は履物も杖も持たずに宣教へ旅立つように勧めていますが、これはユダヤ教の司祭が神殿に入る出で立ちを思い描いています。ユダヤ教祭司が至聖所とよばれる神殿の最奥に入る様な出で立ちで弟子たちを宣教に派遣させようとマタイ記者はしています。それほど、マタイ記者はユダヤ教に対抗する思いをもって、教会の働きを描こうとしているので、最早、旅立ちの装いからかけ離れてしまっているのです。

 弟子たちがイエスによって宣教の業を託され、派遣された実際の姿はどうであったでしょうか。それは旧約聖書に記されている預言者たちの佇まいに似ているようです。本日の旧約聖書マラキ書3章19節以下に世の終わりが予告されていますが、その23節に「大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤを私は遣わす」と語られています。そのエリヤの姿はイエスの先駆者であるバプテスマのヨハネは身に纏って現れています:「ヨハネはラクダの毛衣を着、腰に革の帯を締め、イナゴと野蜜を食べ物としていた(マタイ3:4)。その姿は正に清貧、托鉢者であり、イエスもヨハネから洗礼を受けて、その集団に初めは加わっていたことが分かります。

 清貧と托鉢の宗教集団は時代の変革期、悪い時代、従って、世直しが求められる時代に現れています。イエスの集団もそうであったに違いありません。托鉢をラテン語ではmendicantesと言いますが、それは「修繕する、世直しをする」と言う意味を持っています。紀元12,13世紀(中世の終わりごろ、宗教改革の直前)にはペストが流行し、100年戦争と呼ばれる争いが絶えず人々を苦しめる中で、世直しに取り掛かった改革者たちは、貧者と同じ生活に身を置きながら、貧者の救済と世直しと、宗教改革に励んでいくのです。南仏のピエール・ヴァルド―、アッシジの聖フランチェスコ、スペインのドミニクスたち、托鉢僧は修道会へと結集し、イギリスではウイクリフのローラーズ運動、ドイツでは宗教改革へとつながっています。

聖書の時代に戻り、パウロの伝導旅行には同伴者がおりました。第1回伝道旅行にはバルナバとマルコが一緒に旅をしています。第2回の旅行ではシラスがついています。イエスが弟子たちを送り出す際に、2人ずつ組を作って出かけるように進めていますが(マルコ6:7)、そうした教えに従ってパウロが働いたと言うよりは、そのような旅の仕方は安全を考えてなされていたものと思われます。でも、マタイ記者はマルコが残している「2人ずつ組になって遣わす」ことを削除して、つまり、1人で行くような勧めに改めています。

 宣教者たちとその活動が必ずしも各地で歓迎され、受け入れられた訳ではありません。むしろ、反発や排斥、さらには迫害まで受けたことが、使徒言行録や聖書の書簡集を通して見ることができます。パウロ自身でさえ、初めは迫害者の側にいたことを、フィリピ書3章6節で告白していますし、言行録(8、9章)にも書き記されています。宣教の妨害者であった人が、宣教者の人格や誠実さに感銘を受けて信徒になる、フィリピの町で起きたパウロのような出来事(使徒言行録16章11節以下)は実際、数多く残されています。

 朝日新聞・朝刊に、昨年の7月から池澤夏樹さんが「また会う日まで」と言う題で531回に渡って連載小説を書いておられました。主人公の秋吉利雄は明治生まれのキリスト者II世で、海軍兵学校を卒業し、戦禍を潜り抜けて生き残ったあと、1947年の3月に余命幾ばくもなく病床に臥しながら自分の生涯を回想しています。小説の33回目は両親が洗礼を受けた話でした。引用しますと:

「父は成人してから洗礼を受けて信徒となった。母がそれに続いた。アメリカ聖公会の日本への働きかけをわたしは父から聞いている。最初の宣教師C.M.ウイリアムズ主教が長崎においでになったのは安政6年、西暦ならば1859年。まだ主の教えは禁教であったから密かに教えを広めようとなさったらしい。清貧の暮らしと伝えられる。仕える者が冬の寒さに「薪ストーブをご用意になられては?」と云うと「イエス様の時代にそういうものはありませんでした」と言われた。食事などもごく質素で、料理人に金を与えて素材を買いに行かせるが、戻ると値を聞いて、「高すぎるから安いものと替えてきなさい」と命じる。再三のことに料理人は、「わたくしにはこの職は務まりません」と辞職を申し出た。すると師は「これはお前のために蓄えておいた」と言って毎回の買い直しで余った金を渡そうとした。料理人は心動かされ、生涯お仕えしますと言って、師の手で洗礼を受け、この国で最初の聖公会信徒になった。・・・」

似たような話は横浜でも起きています。幕末の混乱した世の中で、外国人がしばしば、攘夷派の武士によって殺害される事件が起きた中で、1859年(安政)来日したヘボン博士は東神奈川の成仏寺に住まいを設け先ずは施療から始めます。雇い入れた日本人の下僕が3週間ほど経って暇を申し出てきたので理由を尋ねたところ、「自分は武士で夷人の内情を探り、スキあらば切り捨てようと思って雇われたが、あなたは異人とは思えないほど親切で、立派な方なので、自分の考えが間違っていたから暇を取らせていただきたい、」と告白し、後に、ヘボン博士の協力者になった、と報ぜられています。横浜海岸教会で日本最初の信徒となった矢野隆山もヘボン博士やブラウン宣教師らの人格に触れて、洗礼を申し出ています。

 先ほどご一緒に詩編を交読しましたが、詩編を最初に邦訳したのはウイリアムズ司教とG.F.フルベッキ宣教師でした。ことにフルベッキ師は語学に堪能で、ヘブライ語原典の詩編から正確に訳し、それも名訳であったことから、現在、私たちが親しんでいる聖書にも残されている言葉が数多くあります。その中の一つに詩編23:4「たとい我、死の陰の谷を歩むとも、災いを恐れじ。汝、我と共にいませばなり。」(井上篤夫著『フルベッキ伝』252頁参照)

最後に、世直しへと召された者の佇まいについて本日のテキストを通してイエスの教えに迫りたいと思います。清貧の出で立ち、極貧者のような佇まい、それは救いを待ち望んでいる人々と同じ姿になる事に尽きると思います。(赤岩 栄先生の40年に亙る講壇上の出で立ちの変化から、宣教の姿勢と対象の推移を読み取ることが出来ます。)マザー・テレサもそうでした。神の愛の宣教者団を立ち上げてからは、修道尼のマント1着で1979年12月10日、ノルウェーのオスロでノーベル平和賞・授賞式に臨んだ姿を忘れることが出来ません。授賞式で壇上からイザヤ書49章14節を世界に届けて下さったのです:「シオンは言う。『主は私を見捨てられた。私の主は私を見捨てられた』と。女が自分の乳飲み子を忘れることがあろうか。母親が自分の生んだ子を憐れまないだろうか。たとえ、女たちが忘れようとも、私があなたがたを忘れることは決してない。」

イエスが弟子を遣わす際に語られた言葉は、今も私達と教会に生きて働く言葉であることが分かります。マタイ記者は伝えられた伝承にイエスよる宣教の第一声を付け加えることによって、弟子たちが伝えるべきメッセージを思い起こさせてくました。「天の国は近づいた」(10:7)。これは私たちが心に明記すべき救いの知らせ、福音であります。「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」意訳すれば「人生おいて今がチャンスですよ。神の国が既に来ていて、手の届く所にあるからです。だから、生き方の向きを変えて、この良い知らせを信じて行きなさい。」

「良い知らせを伝える者の足は何と麗しいことか」とイザヤ(52:7)が語り、パウロが語り(ロマ書10:12)、ヘンデルがメサイア(第38曲)で歌っている事は、私達の働きにも繋がっています。「実に、信仰は聞くことにより、しかもキリストの言葉を聞くことによって始まる」(ロマ書10:17)ことを覚えて、それぞれ信仰の歩みを共にして参りたく祈ります。