「神様のお弁当」 ヨハネ6:1〜15 久保彩奈
10月9日は、神学校日・伝道献身者奨励日ということで、日本聖書神学校の久保彩奈神学生に説教奉仕をいただきました。久保さんが責任者を務める野宿者支援活動に関するお話だったため、その活動を守る観点から説教は要約、また音声はなしのアップロードです。
Yoyogi-Uehara Church
10月9日は、神学校日・伝道献身者奨励日ということで、日本聖書神学校の久保彩奈神学生に説教奉仕をいただきました。久保さんが責任者を務める野宿者支援活動に関するお話だったため、その活動を守る観点から説教は要約、また音声はなしのアップロードです。
25年前、それぞれの歴史をもつ教会がひとつとなって、「神の栄光のため、そして地域に住む人々のために、よく用いられるように願って」という説教とともにこの教会が建てられ礼拝が始まっている。今日の聖書の箇所はパウロがコリントの教会にあてた手紙で、マケドニア州の諸教会について語られている。激しい試練、極度の貧しさにも関わらず、人に惜しまず施す豊かさとなったとある。なぜ貧しいにも関わらず施していたか?マケドニア州のキリスト者たちは今持っているものだけでも分け与えることによって神の恵みがたくさん受けられることを知っていたのである。死海という湖があるが、そこの水は川から流れ込んでくるだけで外に行くことはないので汚れている。人も同じで誰かからもらうことばかりで与えようとしない人は澱んでいく。私たちの教会が与え続ける教会であれば、苦難に陥った時、神の助けがあるだろう。私たちはさらに豊かに種を蒔き続けていかねばならない。祈るだけではなく行動も必要である。
毎週続けてルカによる福音書から神の御言葉を聞いているが、先週に引き続きいかに私たちに与えられている富を管理すべきかということである。今日の箇所はラザロのたとえ話である。この話は一見贅沢をした者が地獄へ貧しい者が天国へ行く話に思えるがそういうことではない。金持ちは悪いことをしたとは書いていないが家の前にいて苦しんでいたラザロに対して無関心だった。マザーテレサの言う「愛の反対」である。死後金持ちはラザロと同じ目に合う。今日の箇所の直前には「金に執着するファリサイ派」とある。神の律法とは神を愛し、隣人を愛し、貧しい人や困っている人のために自分の持っているものを分かち合うという精神があるが、自分の生活の豊さや細かい規定ばかりを熱心になっていたファリサイ派を批判している。その批判は私達のものでもある。後半のアブラハムの言葉は、今本当の教えを聞いているのにそれに心の扉を閉めてしまう私達の態度である。近くにいる小さくされた兄弟とは誰のことか、それぞれの兄弟に心の扉をひらく一週間にしよう。
主人の財産を管理をする職を失いそうになり、主人の借金を勝手に減らして恩義を売るという不正を働いて保身を図ろうとする「不正な管理人の譬え話」。これは十字架を悟っていたイエスが危機感のない弟子たちに語った話であることが1つのキーポイントである。さてその管理人に対して主人は褒める。イエスも同様で「不正にまみれた富」で友達を作るように続ける。イエスは不正を大目に見ているわけではなく機敏な対応を褒めている。富自体は不正なものではないが、今日の旧約の箇所であるアモス書にあるように富には人を所有する欲望にとりつかせるような一面もある。イエスは「あなたがたは神と富とに仕えることはできない」と言われる。我々は神に仕えなければならない。しかし自分だけでそれを成し遂げるのは困難である。パウロの手紙にもセレニティの祈りにもあるようには「見分けることの大切さ」が大切であり、不正な管理人が他人の力を借りたように我々にも手を差し伸べてくれる方が必要であり、その方こそイエス ・ キリストである。
人はなぜ競争し、勝たなければならないのか?仕事や才能、豊かさ、損得をもって価値を決めるのか?と最近よく考える。イエスさまの価値観は現代社会とは真逆のところにある。イエスは徴税人や罪人(とレッテル貼りされた人々)と食事を供にされた。なぜ彼らと親しくするのか不満に思うファリサイ派や律法学者たちと訊かれたとえ話をなさる。100匹の羊、なくした銀貨。いうまでもなく、みつかった1匹の羊や見つけられた銀貨は私達のことである。無事に見いだされるまで神さまは決して喜ばれない。ひとりひとりがかけがえのない存在なのである。
今日の聖書箇所「フィレモンへの手紙」はパウロが獄中で書いたものとされる。内容は、フィレモンの元奴隷で財産を盗んで逃げだしオネシモを、 ローマでパウロに会いキリストにある兄弟として受け入れてほしいというものである。主イエスの十字架によってパウロもフィレモンも赦されたように、今度はフィレモンもオネシモを赦して欲しい、と。フィレモンにとってパウロは先生といっていい存在であるが、命令ではなく「愛に訴えて」、「 彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにもわたしにも役立つ者となっています」と書く。歴史の中で人間は身分とか、いろいろな人が持つ「違い」から差別を繰り返してきました。しかし、イエス・キリストに結ばれるならば、「=」イコールで結ばれる、キリストにある、愛する兄弟となることができる。かつて奴隷として逃亡したこともある「役に立たない」オネシモでした。しかし、キリストに出遇って彼は救われたのです。主イエスに出遇って彼は変えられた。オネシモのような私たちに、キリストは近づいて来て救ってくださいました。私たちも喜んで神と人に仕えるオネシモ(役に立つもの)になろう
ヨハネの黙示録が書かれたのは、紀元1世紀末、小アジアのエーゲ海沿岸地域。当時現地エリートは皇帝崇拝を利用し富を得ていた。黙示録の著者はそこに鋭い眼差しを向け「新しいエルサレム」という対抗的な神話を描く。地中海世界をすっぽり覆うばかりの立方体という形状、高価な貴金属でできた都市、食料も病の心配もない。また神殿も祭司もなく軍隊もない。住民全員が市民であり、住民全員が市民であり、かつ祭司だ。以上のヴィジョンは、現代の我々の世界とは大きく異なるが、当時の世界も同様にかけはなれていた。しかし黙示録の著者は絶望せず「神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや悲しみも嘆きも労苦もない」という真の世界を夢見た。我々も同様になっていたい。
日本でコロナ禍の影響下で自死した人の数、ウクライナでの戦いなど、死が命をあざ笑っているかのようだ。今日はヤイロの娘の話を手がかりにイエスの命の守り方、復活信仰とは何なのかを考える。 ヤイロスに要請をうけて同行するイエスに次々と邪魔が入る。押し寄せる群衆、出血の止まらない女、そして当の娘の死、人々の嘲笑…しかしイエスはそれを乗り越えただ信じることを命じ、少女に起きなさいと言い、彼女は立ち上がる。現代に生きる我々も、その時代を生きる人々にも理解を超えることであるが、それを通してこの話ではすべてを新しくする「神の王国」の到来を現実化した。 ヨハネ福音書に記されたラザロの復活を読むと、復活信仰とは神の命を与えるイエスへの信頼他ならない。イエスが呼びかける声を聞き、今の世界に神の命から「生きる」ようになるとき、命をあざ笑う死の現実に、今ここで抗えると信じたい。
当時の主イエスの一門は、吹けば飛ぶような小さなグループで社会の中での影響力はほとんどゼロに近かった。主イエスは弟子たちを励まして、そんな彼らに勇気を与えたのが今日の福音の言葉である。どんな状況に置かれても彼らを愛し、彼らのことを忘れない神がおられる。 弟子たちは自分の賜物、時間、力、思いを主イエスのためにささげた。「小さな群れよ、恐れるな」という福音のことばは、今の我々に語られている言葉である。忙しさにかまけて自分のことを優先してしまっていないか。しかし、力・時間・思いをささげて行動することで教会の足腰は鍛えられていく。 最後の晩餐の折に、主イエスは自ら弟子たちの足を洗い、新しい食事(聖餐)を制定された。これは、すべての人が招かれている救いの宴を先取りして祝われるものである。すべての人が神にあってその喜びに与る日まで今日も礼拝をささげている。普段の生活の中で、備えて生きるためであり、大きな希望を信じて生きるためである。
本日の礼拝 旧約聖書:創世記 15:1-6新約聖書:ルカによる福音書 12:32-40説 教:「備えあれば憂いなし」 中村吉基 本日の集会 教会学校(Zoom):9:00~「大切な命」(マルコによる福音書 8:36)...