代々木上原教会一覧

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聖霊降臨節第8主日礼拝 2022/7/24

インターナショナルサンデー―—外国人の人権のために祈り、民族主義と平和を考える 本日の礼拝 旧約聖書:レビ記19:34新約聖書:エフェソの信徒への手紙2:14-22説 教:「あなたがたは神の家族です」宮島牧人(日本キリスト...

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「たった一つ、あったら良い」ルカ10:38~42中村吉基

今日はマルタとマリアの話である。教会生活が長いとどちらのタイプなどと話題になる。今日のマルタから省みなければならないのは、自分のしていることがうまくいかない時に他人にあたるような態度をにじみでてしまっているのではないか。また多くのことに思い悩んでしまっているのではないか。マリアが選んだ「良い方」とは「神の国をもとめること」である。つまり、主イエスが示してくださった愛が、自分の利益のためだけに使われることは本望ではありません。私たちは他者のために愛し、他者のために奉仕することである。しかし私たちは本当に弱さを抱えていますから、マルタのように忙しくなってしまったり、余裕がないときには、神のことをすっかり忘れてしまう。しかし忙しい中でその中で、どのように神を敬い、神との時間が取り「神の愛の伝達者」として私たちが行動する全てのところに主イエスのみ言葉の種まきが出来るようにしていきたい。

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「私の隣人とは?」ルカ10:25-37 中村吉基

イエスが宣教していたガリラヤは貧しい地方であった。懸命に開墾しても税金がとられ破綻してしまう。イエスは社会の中で差別された人々と交流し、どんな人であっても「神に愛されている人」とした。それはガリラヤという辺境に生き、人間扱いされてこなかった人々に、主イエスの教えはまさに「よいニュース」であった。 今日の譬えのサマリア人は、当時のユダヤ人からすれば決して「隣人」の範疇には入らない。しかし、このサマリア人は祭司やレビ人が通り過ぎる中、傷ついた旅人を介抱し宿屋につれていって費用まで払った。私たちも、このサマリア人のように、その人の痛みと自分の痛みとして、すべての人を隣人として寄り添うものでありたい

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「顔をどこに向けるのか」ルカ9:51-62 中村吉基

キリストに従いながら、生活の場においてイエス・キリストのみ言葉にどうすれば生きて行けるのか。今日の箇所でイエスはエルサレムで待ち受けている自分の最期をじっと見据えている。安全な地に留まらず険しい道を突き進むことが神のみ心であると悟り、自分の命だけを守ろうとするのではなく人々の救うことを望んだ。また弟子が彼らを歓迎しない人々を力でねじ伏せる提案をするといさめる。キリスト者は、力ではなく人を赦す心を持たねばならない。 「キリストの道」を歩む時には大きな決断が必要である。今日の箇所では、イエスに従う者がその前に父を葬ることすら許されないという厳しい話がある。この話は人間的な欲望から解放し、神の救いを得させるための道でもある。百年以上前に、大逆の冤罪で捕まった高木顕明という僧がいた。彼は極貧の門徒の中で暮らすうちに、みなともに生きる同じいのちであるという同朋和敬という考えに至る。これは現代を生きるキリスト者の我々にも通じる大切な教えである。聖書では「鋤(すき)に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」とある。油断してほんの少しの間でも主イエスから目をそらしてしまうと悪の力はつけ入る。私達はどこに顔を向けているかを問うて信仰生活を送っていきたい。

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「教会を信じる」ガラテヤ3:26-29 中村吉基

神は私達に使命を与えていらっしゃる、私達は神の世界の出演者である。ともすると自分の欠点ばかりに目がいくが、それは何の得にもならないし神への冒涜でもある。今日の聖書の箇所でパウロは、あなたがたは「キリスト・イエスに結ばれて神の子」であると書いている。つまり、神と結ばれて生きるものとなったという証である。またキリストを着ている者に差はないとも書く。民族も身分も性別も、そしてその属性にかかる差別や役割もないとしている。パトリック・チェンはそれをラディカル・ラブと呼んでいる。教会において、多様な人も受け入れる所であるはずが、排除や差別もある。キリストにおいて皆一つであることを原点として教会を作り上げていきたい。

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グリーフサポートよよぎ

身近な人やペットを亡くした人たちを対象に、代々木上原教会牧師と平田神社権禰宜が協働して行うグリーフサポート(傾聴)活動です。詳しくは当教会にご連絡ください。 グリーフサポートよよぎ チャプレン 中村吉基