「たった一つ、あったら良い」ルカ10:38~42中村吉基

創世記18:1-10前半;ルカによる福音書10:38~42

あるキリスト教の雑誌に、ジャマイカの女性が、電話のことについて書いておられました。ジャマイカは、中央アメリカのカリブ海に浮かぶ島国です。経済が困難な国の一つですが、日本と同じで携帯電話が普及しています。この国でも家庭の固定電話をやめて、携帯だけの契約に切り替える人が多いのだそうです。

そこに書かれていたことですが、ある日曜日の礼拝で説教者は、固定電話と携帯電話を引き合いに出して、ほとんど多くの人たちは「固定クリスチャン」だと言いました。「固定クリスチャン」とは自分の近い範囲でしか十分信仰に生きていけないというのです。反対に「携帯クリスチャン」は一緒にどこにでも行き、他の人と繋がるための機能がついていて、それを仕事場や学校や買い物などに持っていくことができる。それが主イエスのみ心だというのです。主イエスは私たちに、信仰を分かちあうように期待しておられるのです。主イエスも実際にそうでした。ほうぼうに旅をされて、そこに住む人びとに信仰を伝え、分かち合われました。

今日の聖書はこう語りだします。

「一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。」

主イエスはやはりこの時も旅をしておられたのです。

昔から教会の中で、「あなたはマルタ型のタイプだ」とか、「私はマリア型だ」とかよく言われるものです。皆さんはどちらでしょうか? どちらに共感しますか? 今日はこの説教の終わりまで、それを考えながらお聞きいただきたいと思います。ある時、主イエスはマルタとマリアの姉妹の家をお訪ねになりました。ユダヤ教の教師(ラビ)が決して女性の家に入って教えることがなかったような時代ですから、イエスのふるまいはかなり異例といっていいでしょう。姉妹のほうからしたらこんな光栄はまたとないと思っていたことでしょう。この姉妹の家を訪ねたイエスに対してとったマルタとマリアの行動は、まったく対照的なものでした。

マルタは気配り上手な人ですね。彼女は「いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが」とあるように、全体を見回して抜かりなく、きちっと推し進めていくタイプでした。ここでは主イエスに失礼がないように食事などの準備をしていたことでしょう。ここには主イエスだけではなく、ほかの弟子たちもいたと思われますから、マルタはせっかく来てくださった主イエスご一行に失礼があってはならないと、そのもてなしのためにあくせく動き回っていたはずです。「イエスは喜んでくれるだろうか」おそらくそのような思いを胸に働いていたことでしょう。

一方でマリアはどうだったのかというと、彼女は「主の足もとに座って、その話に聞き入っていた」といいます。主イエスの話に真剣に耳を傾けていました。当時ラビは女性を足元に座らせて、教えたりすることはなかったそうです。(男尊女卑の傾向が見られますが)、律法を学ぶことは男性に限定されていたからです。しかし、主イエスは彼女を分け隔てすることはありませんでした。ですからこの場面も異例なこととして周りの人たちに映っていたのです。

しかしマルタは限られた時間の中で準備がうまく捗らなかったのでしょうか。次第に全体のことが目に入ってきて心配になってきたのでしょう。イライラしてマリアの態度を疎ましく思うようになってきました。そしてついに不満は爆発します。彼女はこう言いました。

「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」

このようにイエスに訴え出るのです。

しかしイエスはマリアを咎めるどころか、マルタに愛を込めてこのように諭しています。

「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

マルタは一生懸命に主イエスのご一行をもてなそうとあらゆる力を尽くして立ち働いていました。私たちもおそらくそうでしょう。大切に思っている人には丁寧にもてなそうとします。しかし、マルタはそこで、この場を取り仕切る自分中心的な思いに囚われてしまったのではないでしょうか。

ここを以前教会の聖書の分かち合いのときに、ある方が、「マルタも主イエスの足元に早く座って、その教えに耳を傾けたかったのではないか」とおっしゃった方がありました。たしかにそうでしょう。私たちも自分の行動を省みて、改めなければならないのです。自分が一生懸命やっていることがうまくいかなかったりして、人に当たったり、人をうらやましく思ったり、さらにはその不満から相手に意地悪を言ったり、してしまったりとそういう態度がいつしかにじみ出てきてはいないでしょうか。そしてもしかしたらマルタの心の中には「家事をするのなら、誰のも負けない。ましてやマリアのようにのんびりしている人と私は違う」と思っていたかもしれません。主イエスはそのマルタの内心に気づいていたのかもしれないのです。

しかしこれこそが、「多くのことに思い悩み、心を乱している」(41節)ことなのです。主イエスは山上の説教のなかで、一つの大きな教えとして「思い悩む」ことの愚かさを説いています。「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」(マタイ6:34)と思い悩むことこそが、人間を良からぬ方向に、あるいはダメにしてしまうと仰せになるのです。

このルカ9、10章にかけては「神の国の福音」の重要性が語られます。主イエスは「必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ」と言っておられます。それは「神の国」を求めることにほかなりません。マリアはそれがもっとも大切だと知っていたのです。主イエスが示してくださった愛が、自分の利益のためだけに使われることは本望ではありません。私たちは他者のために愛し、他者のために奉仕するのです。ちなみに「もてなし」という言葉が出てまいります。これは給仕とも訳せますが、「奉仕」とも訳すことができるのです。

さて、私たちの信仰の中心は、神のみ言葉に耳を傾け、それだけでなく普段の生活の中で実行することです。このことを忘れてはいけません。これが私たちにできる神への最高の「奉仕」です。英語で礼拝のことをWorshipや最近ではCelebrationとも言いますけれども、Serviceという言葉も用います。もちろん日曜日のこの主日礼拝だけでなく、私たちは普段の生活の中で神へのServiceを捧げるのです。

しかし私たちは本当に弱さを抱えていますから、マルタのように忙しくなってしまったり、余裕がないときには、神のことをすっかり忘れてしまうのです。しかしそこが私たちの「信仰の見せ所」なのかもしれません(信仰は見せびらかすようなものではありませんが)。

私たちの生活の中で何を優先していくのか。それはたとえば、「毎朝聖書を欠かさず読んでいます」とか「信仰の本をこれこれ、これだけ読みました」というような行いや量的なものではなく、私たちはいつでもどこでも神につながって、神に心を向けられるようにならなければ、いつまでも私たちが信仰者としての脆弱ぶりは拭えないのです。では皆さんは普段の生活の中で何を一番大切にしておられるでしょうか。神のことを一日に一度でも考えることがあるでしょうか。私たちはそれぞれに1日の中で務めを持っています。中には限られた時間でこなさなければならない仕事もあります。その中で、どのように神を敬い、神との時間が取れるのか、今日の箇所からぜひ考えていただきたいと願います。

主イエスは決して、マルタの心を踏みにじったわけではないのです。もてなしを軽んじておられたわけではない。しかしそれよりも第一にするものがあるのだということをお示しになりたかったのです。

もし主イエスがひとところで「固定」して活動されて、特定の人たちだけにしか福音が伝わらなかったのであれば、必要としている人たちに主イエスの教えは語られなかったかもしれません。私たちクリスチャンは「神の愛の伝達者」です。私たちが行動する全てのところに主イエスのみ言葉の種まきが出来るように進んで「携帯クリスチャン」になりたいものです。