「教会を信じる」ガラテヤ3:26-29 中村吉基


イザヤ書65:1−9;ガラテヤの信徒への手紙3:26-29

日曜の朝、教会から帰った息子が、いきなりお母さんにこう言いました。
「ママ、ぼく、大きくなったら、牧師さんになることにしたよ」。
「それはいいわね。」お母さんは喜びました。
「でも、どうして牧師さんになろうと思うの?」
「あのねどうせ日曜日には教会に行かなきゃいけないんだし、それに、じっと礼拝で座って退屈しているより、立ってガミガミ言っていたほうが面白いだろうなって思うんだ」。

私たちは2週前に聖霊降臨(ペンテコステ)を祝いました。そして今日から今年のアドヴェントまでの半年は「教会の半年」と呼ばれ、クリスマスやイースターなど聖書に記されている祝いの祭りのない期節に入ります。しかしこの半年には、平和聖日や世界聖餐日、神学校日、宗教改革記念日、聖徒の日(召天者記念礼拝)、子ども祝福礼拝など教会の歴史や営みを見つめながら祈りを合わせる礼拝が行われていきます。

皆さん一人ひとりには、神からの希望の種が蒔かれているということ。そして神は皆さんに新しい扉を開けようとされているということ。このように聞いて皆さんはそれを心の底から信じることができるでしょうか。創世記に記されているように、自分自身が(私たち人間が)神に似せられて造られた存在(イマゴ・デイ IMAGO DEI)であることを果たして信じておられるでしょうか。

創世記2章7節にはこのように記されています。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」。最初の人間アダムが造られたことを記しています。ここをよく読むと、私たち人間は、その時やはり創造された動物や植物などとは、違った存在であることがわかるのです。つまり人間は神からいのちの息を吹き入れられて生きるものとなりました。このことは人間に神のミッション(使命)が与えられたことを意味します。

私たちはただ単に、偶然、無計画に生まれたのではありません。また神は何か思いつきのように皆さんをこの地上に生まれさせたわけではないのです。神は皆さんが生まれるずっとずっと前から、皆さんを神の素晴らしいご計画のいわばキャスト・神の世界の出演者として選んでいてくださったのです!

しかし私たちといえばどうでしょうか。自分の欠点のことばかりあげつらう人がいます。そうでなくても、ああだったらいい、こうだったらいいと人のことをうらやましくおっしゃる方もいます。あるいはもっともっとこれが欲しい、あれが欲しいと自分に足りない何かを求めている人もいます。しかしそれは誤った思いだといわねばなりません。なぜなら神は皆さんをキャストとしてすでに選んでいるのです。皆さんがこの地上に生まれたということがその証拠です。神は必要のない人間を造ることはありません。皆さんの中にはまだ気がついていない人もいるかもしれませんが、神はあなたという一人を、目的をもって創造されているのです。個性をもって、独自性をもって私たちは生きています。ですから自分自身を愛せない、自分を悪く言う人は、実は神を冒涜しているのです。ですから今日この話を聞いた皆さんはぜひとも自分を卑下することをやめていただきたいのです。自分自身を悪く言っても何の得にもなりません。そんなことを言っているよりも、自分自身は唯一無二の存在、世界中に自分自身はたった一人だけ、神が特別に造ってくださった存在であると意識しながら生きるほうが、よりこの人生を楽しむことができるでしょう。

確かに私たちには欠点があります。改めたいと思う部分もお持ちでしょう。もっともっと変わりたいと思いも尽きないかもしれません。しかし、そんなことよりも、自分自身に神は何を託してくださっているのか、ということを祈りの中で示され、その神の希望を自分の希望としていくことは私たちが幸せに生きていく道の第一歩なのです。

そこで今日の箇所でパウロは言います。

あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです(26節から)。

「キリスト・イエスに結ばれて」とあるところは洗礼によってキリストのからだへと私たちは組み込まれるのだ、ということを表しています。そして「神の子」とされるのは神と結ばれて生きるものとなったという証しです。青野太潮先生はここのところをこう訳しています。「あなたがたは、キリスト・イエスにある信仰をとおして、すべて神の子たちなのだからである」。そして私たちはキリストを着ている、身にまとっている存在なのです。私の好きな言葉でもありますが、同じガラテヤの2章20節には「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」というパウロの渾身の言葉があります。

続けてパウロはこう書きました。

キリストを着ている者においては、もはやユダヤ人もギリシア人もない。

それは今の言葉で言えば、アジア人もヨーロッパ人も、アフリカ人もアメリカ人も、キリストにあっては一つであると言っています。そしてそれだけではありません。「奴隷も自由な身分の者もなく」と社会の中での身分の違い、さらに「男も女も」という自然的な性の違いもないと言うのです。実は今日の箇所は最初期のキリスト教会において洗礼式の際に読まれたと推測されている文章なのです。当時の教会においてこれが読まれる時、民族的な違い、身分の違い、性の違いによる差別や抑圧に重荷を負っていた人々にとってまさに福音の言葉であったにちがいありません。

一つお話をしておきますと、この3つの言葉は「○○も○○もありません」とまとめられていますが、実は3つ目の「男も女も」というところは原文では「男と女もありません」となっています。たった一文字違うだけですが大きな意味の違いができてしまいます。つまり「男と女も」という言葉の背後には男と女は一対のものであるという規範があるのです。しかしこの「男と女もありません」という言葉に、結婚しなければならないというプレッシャーや女性は子を産まなければならないということから解放される言葉であったでしょう。さらには当時にも存在していた同性愛者やさまざまな性のあり方に生きる人々にとってこの言葉が励ましになったことでしょう。

パトリック・チェンという人が書かれた『ラディカル・ラブ』という書物があります。ここで言われているのは性別や、国境や、境遇といったような私たちに「境界線」が引かれてしまっているようなものを打ち壊す究極の神の愛、それをラディカル・ラブと呼ぶのです。神の前には男も女もないのです。

教会は本来、多様な人々の生き様を受け入れ、キリストにおいて一つだと告げてきました。しかしながらいつの間にか、教会の中にも自分たちと考え方の違う者を排除したり、差別をする風潮が出てきたことは嘆かわしい事実です。私たちは今日、教会の原点に立ち戻る決意をしなければならないでしょう。私たちは歴史の中で信仰に生きてきた聖徒たちに連なりながら、神を見上げてこの時代にふさわしい教会をつくりあげて行きましょう。

「あなたがたは、キリストにおいて皆一つだからです」。