中村吉基一覧

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「わたしを思い出してください」ルカ23:33-43 中村吉基

待降節前の今日は伝統的に「王であるキリスト」にちなんだ聖書箇所が読まれる。おとぎ話や海外の教会にある像などで「王」の印象はあるかもしれないが、今日のルカの福音に描かれた主イエスの言動から本当の王を聴いていきたい。十字架の主イエスを最初にあざ笑うのは議員たち、兵士たちも同様であり、ついには十字架につけられていた二人の犯罪人のひとりもののしりはじめる。頭にはユダヤの王と書き、彼らの言い分は「本当の救い主なら自分を救ってみろ」と言い、酸いぶどう酒を飲ませて侮辱する。彼らはイエスが本当の救い主であるはずがないと思っている。彼らは、私達もよくやってしまうが、神を試している。神はやろうと思えば、力あるヒーローのようにこの状況を変えることができた。しかしそのような「力で屈服させる」のは神のやり方でもイエスの生き方でもない。神は決して私たちを操ろうとはされず、人間に対して心に愛をもって迫る。イエスの生涯はそのためのものであったともいえる。主イエスは迫り来る死を前に悲しむ女性たちを慰め、十字架につける兵士達のゆるしを願い、自分の罪を悔いているもう一人の犯罪人には救われることを宣言された。そのような主イエスの姿に私たちは愛を見ることができる。「自分のために、自分のことだけに」固執するのではなく、主イエスと一致して歩んでいく人生になることを神は望んでおられる。ルカの福音書だけに記されているこの罪人の言葉「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」に対し、イエスは神の国の王として約束した。この罪人の祈りを私達の祈りとしたい。そして自ら十字架への道を歩んだ主イエスこそが私たちをあらゆる悪の支配から解放し神の国へと招いてくださることを信じていきたい。

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「あいしあいなさい」コヘレト12:1 中村吉基

(子供祝福礼拝。お子さんと一緒の礼拝です)。F牧師の娘「るつ記」さんは、一生涯を日本人のために捧げたキュクリッヒ宣教師を小学生の頃から尊敬し、やがて大きくなってから外国人のために働く夢をかなえるべく外国で奉仕活動をしていた。大学卒業後フィリピンに留学し海岸で子供たちと水浴びをしていた際底流に巻き込まれた子供を助けるため亡くなってしまった。今日の聖書箇所は「互いに愛し合いなさい…友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」というイエス様の言葉である。愛し合うとは目の前にいる人を「たいせつにする」こと。自分のためだけに神様が下さっ命を使わないこと。自分のことだけ考えそうになったら「神さま」「イエスさま」ってお名前を呼んで、力をいただくこと。私達のそばで助けを必要としてる人がいるはずで、その人たちをたいせつにすることがイエス様の教えにある「愛し合うことにつながる。

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「何事にも時がある」コヘレト3:1-8 中村吉基

今日は先に天に召された聖徒の皆さまを記念しつつ、ご遺族の方々、関係者の方々をお招きし、礼拝を捧げている。 聖書の時代の王の平均寿命は44歳、庶民は30歳前後と考えられている。それに比べると現代は驚くほど長く生きるが、その人生は苦楽が交互に来る「想定外」続き。不運や不幸に会う方もいる。今日の箇所のコヘレトの言葉にその全てが書かれているといってもいいのではないか?キリスト者には「殺す」「憎む」「戦い」などは無縁と思われるかもしれないが、「想定外」に一歩踏み間違えれば過ちを犯してしまう弱さを抱えている。しかし神からすればすべては「想定内」、「定められた時」なのである。 コヘレトは旧約聖書の中では「箴言」などと同じ知恵文学に属する書物である。しかし他と決定的に違うのは「この世のすべてはあらかじめ運命によって定められており、決して変えることはできない」という考えに立っていることである。私たちが「何事にも時がある」ということを予め知っていれば、自分の人生に起こることは「神のみ心」であると信じることができる。イエス・キリストもそのことをよく理解していた。主イエスは宣教の第一声で「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と仰った。言い換えれば「いよいよ神の定められた時が来た」ということである。我々の人生はすべてのことが神の「時」の中で進められている。

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「神の心に響く人」ルカ18:9–14 中村吉基

今日の箇所は2人の祈りの譬えである。律法をよく学んで掟を確実に実行するファリサイ派と民衆から「罪人」と同様にさげすまれていた徴税人です。しかし模範的なファリサイ派の祈りはその高慢さと惨めさを包み隠さずに神にぶつけるような(カトリックの射祷を想起するような)徴税人の祈りは対照的です。 私達にはいつでも驕り高ぶる者になってしまう危険性がある。年に一度こうして宗教改革を記念して礼拝を捧げ、信仰を原点に戻そうという運動を思い起こしたい。1414年コンスタンツ公会議で火あぶりの刑に処されたヤン・フスは一般市民にも分かるような簡単なチェコ語の説教書を著わし、各人の心の正義を模索しより神に近い生活を送るべきだと言うのが彼の信条であった。処刑後崇敬の対象とならないようにライン川に灰は流されたが、現在のチェコの旗には彼の言葉「真実は勝つ」が記されている。今日の箇所の終わりには「だれでも高ぶるものは低くされ、へりくだる者は高められる」とある他者へのやさしさをより深く行うことのできるように神に力をいただき、そして神の心に響く者へと変えられていこう。

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「心が折れる?」ルカ18:1−8 中村吉基

いつからか使われ始めた「心が折れる」という言葉、「もうだめだ」という時に使わるようだが、人間の本当の底力は危機の時に発揮されるとも言われる。今日の箇所は唐突に「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」と始まる。その前はイエスの最期と再臨についての話であるからである。そして「気を落とさずに祈りなさい」とおっしゃり、裁判官とひっきりなしにやってくるやもめの譬えにになる。彼女は自分の訴えを裁判官に取り上げてもらおうと、諦めないで裁判官へ願い出ていた。そして人を「神を畏れず人とも思わない裁判官」はとうとうやもめの訴えを受け入れる。この譬えを通してイエスは弟子や私達に神に訴え、叫びを上げ続けるようにと促しておられる。神はいつでも祈りを聴いて下っていて実現するかは神だけが知っている。だから気を落とさず常に祈ることが求められている。往々にして「神は何もしてくださらない」と思える時があるが、気を落とさずに絶えず祈らなければならない、つまり「祈り続けながらも私たちは信頼して主の応えを待たなければならない。今日の最期にイエスは終わりの日に救い主が来られる時にいったいどれだけの人が信仰を持って祈り続けているだろうかを問う。心が折れてはならない、気を落とさず、決してあきらめない信仰が必要である。

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「分かち合うことから始めよう」ルカ16:19-31 中村吉基

毎週続けてルカによる福音書から神の御言葉を聞いているが、先週に引き続きいかに私たちに与えられている富を管理すべきかということである。今日の箇所はラザロのたとえ話である。この話は一見贅沢をした者が地獄へ貧しい者が天国へ行く話に思えるがそういうことではない。金持ちは悪いことをしたとは書いていないが家の前にいて苦しんでいたラザロに対して無関心だった。マザーテレサの言う「愛の反対」である。死後金持ちはラザロと同じ目に合う。今日の箇所の直前には「金に執着するファリサイ派」とある。神の律法とは神を愛し、隣人を愛し、貧しい人や困っている人のために自分の持っているものを分かち合うという精神があるが、自分の生活の豊さや細かい規定ばかりを熱心になっていたファリサイ派を批判している。その批判は私達のものでもある。後半のアブラハムの言葉は、今本当の教えを聞いているのにそれに心の扉を閉めてしまう私達の態度である。近くにいる小さくされた兄弟とは誰のことか、それぞれの兄弟に心の扉をひらく一週間にしよう。

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「『自分』からの解放」ルカ16:1-13 中村吉基

主人の財産を管理をする職を失いそうになり、主人の借金を勝手に減らして恩義を売るという不正を働いて保身を図ろうとする「不正な管理人の譬え話」。これは十字架を悟っていたイエスが危機感のない弟子たちに語った話であることが1つのキーポイントである。さてその管理人に対して主人は褒める。イエスも同様で「不正にまみれた富」で友達を作るように続ける。イエスは不正を大目に見ているわけではなく機敏な対応を褒めている。富自体は不正なものではないが、今日の旧約の箇所であるアモス書にあるように富には人を所有する欲望にとりつかせるような一面もある。イエスは「あなたがたは神と富とに仕えることはできない」と言われる。我々は神に仕えなければならない。しかし自分だけでそれを成し遂げるのは困難である。パウロの手紙にもセレニティの祈りにもあるようには「見分けることの大切さ」が大切であり、不正な管理人が他人の力を借りたように我々にも手を差し伸べてくれる方が必要であり、その方こそイエス ・ キリストである。

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「かけがえのない存在」ルカ15:1-10 中村吉基

人はなぜ競争し、勝たなければならないのか?仕事や才能、豊かさ、損得をもって価値を決めるのか?と最近よく考える。イエスさまの価値観は現代社会とは真逆のところにある。イエスは徴税人や罪人(とレッテル貼りされた人々)と食事を供にされた。なぜ彼らと親しくするのか不満に思うファリサイ派や律法学者たちと訊かれたとえ話をなさる。100匹の羊、なくした銀貨。いうまでもなく、みつかった1匹の羊や見つけられた銀貨は私達のことである。無事に見いだされるまで神さまは決して喜ばれない。ひとりひとりがかけがえのない存在なのである。

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「オネシモーー役に立つ者へ」フィレモン1~25 中村吉基

今日の聖書箇所「フィレモンへの手紙」はパウロが獄中で書いたものとされる。内容は、フィレモンの元奴隷で財産を盗んで逃げだしオネシモを、 ローマでパウロに会いキリストにある兄弟として受け入れてほしいというものである。主イエスの十字架によってパウロもフィレモンも赦されたように、今度はフィレモンもオネシモを赦して欲しい、と。フィレモンにとってパウロは先生といっていい存在であるが、命令ではなく「愛に訴えて」、「 彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにもわたしにも役立つ者となっています」と書く。歴史の中で人間は身分とか、いろいろな人が持つ「違い」から差別を繰り返してきました。しかし、イエス・キリストに結ばれるならば、「=」イコールで結ばれる、キリストにある、愛する兄弟となることができる。かつて奴隷として逃亡したこともある「役に立たない」オネシモでした。しかし、キリストに出遇って彼は救われたのです。主イエスに出遇って彼は変えられた。オネシモのような私たちに、キリストは近づいて来て救ってくださいました。私たちも喜んで神と人に仕えるオネシモ(役に立つもの)になろう

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「備えあれば憂いなし」ルカ12:32-40中村吉基

当時の主イエスの一門は、吹けば飛ぶような小さなグループで社会の中での影響力はほとんどゼロに近かった。主イエスは弟子たちを励まして、そんな彼らに勇気を与えたのが今日の福音の言葉である。どんな状況に置かれても彼らを愛し、彼らのことを忘れない神がおられる。 弟子たちは自分の賜物、時間、力、思いを主イエスのためにささげた。「小さな群れよ、恐れるな」という福音のことばは、今の我々に語られている言葉である。忙しさにかまけて自分のことを優先してしまっていないか。しかし、力・時間・思いをささげて行動することで教会の足腰は鍛えられていく。 最後の晩餐の折に、主イエスは自ら弟子たちの足を洗い、新しい食事(聖餐)を制定された。これは、すべての人が招かれている救いの宴を先取りして祝われるものである。すべての人が神にあってその喜びに与る日まで今日も礼拝をささげている。普段の生活の中で、備えて生きるためであり、大きな希望を信じて生きるためである。