「絶望のその先に」ヨハネ20:19~31 中村吉基

出エジプト記15:1-11;ヨハネによる福音書20:19-31

復活の「事実」は信仰者の「眼」で、信仰のフィルターを通して見る以外に方法はありません。信仰は神秘に属することです。分厚い神学書を1冊読んでも、高名な学者のお話しを聞いたからといって分かることではありません。
聖書の中には主イエスの復活以外にもいくつかの人間のいのちが神の力によって甦らされたエピソードがあります。その一つが、ヨハネによる福音書11章に描かれているラザロの物語です。亡くなって死体が墓に安置されて4日も経っていました。当然、人々は死体が腐敗しているだろうと思ったわけですが、主イエスはラザロを生き返らせます。これは復活というよりは「蘇生」といったほうがよいかもしれません。なぜそういうのかといいますと、今私たちが聴きました同じヨハネ福音書に記されている主イエスの復活の記事とは、いささか違った表現で描かれているからです。先週の続きになります。最初にこう書かれてあります。

その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。

「その日」というのは主イエスがお甦りになった日曜日のことです。先週の箇所で言うと、マグダラのマリアやペトロやヨハネが、主が復活された事実を経験した日のことです。鍵がかけられていた家に、あの十字架の日、すなわち金曜日からずっと逃亡していたイエスの弟子たちがいました。そこはあの最後の晩餐が行われた場所だと考えられていますが、追っ手が来て、弟子たちが捕らえられないように頑丈に鍵をかけていたと思われます。しかし、そこに主イエスがいました。不思議な話です。イエスがそこにおられました。それはイエスが、ラザロとも、私たちとも違った〈からだ〉を持っていたことを表します。いわば霊的なからだであったのでしょう。しかし、これは人間の五感でも確認ができるみ姿でした。

「あなたがたに平和があるように」とは、ヨハネ14章で「あなたがたをみなしごにはしておかない」(18)と助け手である聖霊を送ることを主は約束されました。またその際に「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える」と聖霊と平和を残すこととは密接な関係があるとも言われました。ですからこの「あなたがたに平和があるように」はたんにあいさつしているのではなく、これから聖霊が到来するのだという宣言でもあるのです! 21節でも同じ言葉が繰り返されています。平和を作り出す者として弟子たちに念押ししているようにも読むことができます。

「聖霊を受けなさい」(22節)と息を吹き込みながら主が言われたのは、造り主なる神が同じようにして人を造りました。鼻にいのちの息を吹き入れて、人がいのちを得たように、あなたがたもいのちを世の人々に与えるために行きなさいと主が弟子たちを派遣されているのです。また同じヨハネ福音書16:33には「勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」と主イエスが言っておられますが、この世の仕方で、十字架で処刑されても、死から甦られた事実が「世に勝つ」ことを証明しているのです。

隠れていたはずの弟子たちの真ん中にイエスが突然現れます。驚きを隠せない弟子たちでした。
イエスは、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ、とあります。
ルカによる福音書24章にはイエスがじっさいに、弟子たちに触れて確かめるようにお招きになる場面があります。

復活のイエス・キリストは霊的なからだをとっておられたと申しましたが、同時にそれは人間の五感で確かめられるものでした。そして、その形態や状態については詳しく記されてありませんが、特別に奇妙な形をしていたのでもないし、幽霊や亡霊のようだったとも書かれてありません。ということは、私たち人間と同じ、普通のからだであったといえます。しかし、そうでありながら、イエスが弟子たちのいる隠れ家にやってきた時に、居合わせなかったトマスは、その男の外見を見て、イエスであることを確認するのに少し時間がかかっています。それがイエスであるということに気が付かない……私たちが聖書を読む時に、ここに注目すべきであると思います。

それはマグダラのマリアがイエスに再会した時にも「園丁(園の管理者)」、エマオでの途上で2人の弟子たちがイエスに出遇ったときも、一人の「旅人」だと思い、最初はそれがすぐにイエスだということに気がついていないのです。
イエスの側近中の側近の弟子たちであっても、このような有様でしたから、おそらくその外見は生前のイエスのままではなかったのではないか、と思われるのです。

トマスは主イエスがあのような形で辱めを受け、十字架で殺されるとはよもや思ってもいませんでした。完全に主に躓いて、そして仲間たちからも離れ去っていただろうと思われます。ですからこの夜、皆と一緒に復活された主イエスに再会することはできませんでした。なぜ彼がここにいなかったのか。理由は記されてありません。もしかしたら彼はいち早く種の復活の出来事を誰かから聞いて自分の目で確かめようと主を探し回っていたかもしれません。
しかし、復活の主イエスに再会して大騒ぎしたり、はしゃいでいたり、浮かれていた仲間たちを見て、何か仲間はずれになった気分を味わったのでしょうか。私たちもこの気持ちが判るのではないでしょうか。みんなで何かを一緒にしようとして自分だけ参加できなかったことがあるのではないでしょうか。その時、皆さんはどんな気持ちがしたでしょうか。へそを曲げて奇怪な行動に走る人もいます。この時のトマスは悔しさのあまり、仲間たちにも心を閉ざしてしまいました。他の仲間たちが「わたしたちは主を見た」と言うと癪に障って仕方がなかったのでしょう。
すべてを委ね、イスラエルを解放する王だと信じ従ってきた、その主イエスが殺されてしまった。しかも犯罪者として最も極刑の十字架刑となって……。トマスの心の動きは絶望のどん底であったでしょう。しかしそのトマスに向かっても主イエスは言われたのでした。「あなたがたに平和があるように」と。トマスはもうこれからどう生きていっていいのか分からない。何をしていいのかも・・・…。では彼はどのようにして癒やされたのでしょうか。その前にトマスはこのように言い張っていたのです。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」。8日ののちに再び現れた主イエスはこのようにトマスに言いました。この「跡」というのは打たれたことによってできる傷跡のことです。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」。主イエスの傷跡はわき腹に手を入れることができるほど大きなものと想像されますが、こうしてトマスはじかに主イエスの傷跡を手で触れて、主イエスが生きておられることを確信し、癒やされ、挫折も不信感も消え去って、信仰と平和を取り戻します。主イエスを捨てて離れていったトマスでしたが、このときは主イエスの側から近づかれました。

主イエスが「あなたがたに平和があるように」と3度も繰り返していることを今日、私たちは心に刻みたいと思うのです。主イエスのこの言葉は傷ついた人々をあたかも母鳥がその翼で雛を包むような温かさがあります。こうして弟子たちは復活した主イエスを通して、神さまの「愛とゆるし」を体験し、力を取り戻していったのです。主イエスはトマスに手にあった釘の跡とわき腹の傷に触れるよう招きました。これはイエス流の愛です。主イエスの生身の傷がトマスの心の傷を癒やしたのです。この出来事は再びこの世界に出て行って、自分らしく、元気に生きるチャンスを、主イエスを通して神さまがくださったと言えるでしょう 

そして主イエスはトマスに言われました。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」(29節)という言葉に主イエスの並々ならぬ愛を感じます。ペトロの手紙1の1:8に「あなたがたはキリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています」という言葉がありますが、聴くだけで信じられる人は幸いだというのです。

主イエスが大きく両手を広げて、「ようやく私の元に帰ってきたのか!」と言って祝福しているかのようです。主イエスの愛とゆるしに満ちたみ言葉の数々が凍りつき、固まってしまった人びとの心を少しずつ溶かしていくのです。復活の出来事は絶望的になっていた人びとが再生する道を与えたのです。考えてみれば家に閉じこもっていた弟子たちは、もうそのようにすることはなく、外の世界で堂々と胸を張ってきました。そして主イエスの教えを宣べ伝えて、多くの弟子たちが最後には殉教することもいとわなくなっていたのです。いのちを惜しんで家の中でビクビクしていた人たちの何という変貌でしょうか。神の愛とはこういう力を持っているということです。そして皆さん一人ひとりもこの神の愛を知ることによって、包まれることによって変わることが出来るのです。

弟子たちは自分の名前をイエスに呼ばれたかもしれません。話しぶりや動作を通して、この方こそ主であると再確認したのでしょう。そしてあの十字架で殺されたイエスが、「今、ここに」居てくださることを再確認したのです。復活のイエスが霊的なからだをとって、人間の「生」に関わり続けてくださるのです。