ルカによる福音書一覧

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「自分を献げる」ルカ2:15-21 中村吉基

すっかり正月であるが、教会では公現日までクリスマスである。イエスの誕生をめぐり、ルカに記された羊飼いとマリアの姿を通して信仰を考えたい。羊飼いたちは天使の言葉を信じ、ベツレヘムにかけつけ、その後喜びを独占せず人々に伝えた。当時差別されていた職業である彼らに、神が味方されているのである。一方マリアは、不可解なこともすべて心に納めて思い巡らした。すべてを「神のみこころ」として捉えようとした。。教会はこの二つの信仰に倣い神の愛を分かち合う共同体として新しい年をすごしていきたい

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「神の恵みを身に帯びて」ルカ1:39-56 中村吉基

今日は「喜びの主日」。マリアが天使からの救い主の母になることを告げられ受け入れる。マリアは確認のためエリザベトのところにむかい、聖霊に満たされてほめたたえられる。マリア賛歌と言われる箇所である。私たちもそれぞれの信仰を確かめてマリアと同じように信仰の喜びを受け、次週のクリスマス礼拝をむかえよう

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「神は待っておられる」出2:11-25 中村吉基

モーセはエジプトの王室で育ちながら、ヘブライ人の奴隷状態を苦々しく思い、ある日ついに同胞を救おうとしてエジプト人を殺してしまう。またそのことが知られ受け入れられていないことを知ると逃亡生活にはいる。逃亡先では結婚をするものの孤独感がある。やがてファラオがなくなると、イスラエルの民には大きな失望が待っている。しかしどんな時も神は見捨てることはなかった。神は忘れていないがイスラエルが思い出すまで待ってくださっていた。人と違って神はその名を呼ぶ人には応えてくださる。

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「かみさまのもとにいる幸せ」ルカ15:11-31 なかむらよしき

今日は子ども祝福礼拝、子供も大人も皆で神を賛美します。イエス様は今日の箇所でこんなお話をします。「お金をもらった次男が遊びおちぶれて帰ってきたが父は彼のために無事に帰ってきたお祝いをした。それをみた長男は、自分は真面目に働いてきたのに納得できないというが、父親は長男を認め説得し、かつ、弟の帰還を喜んでほしいという。このたとえ話の父親は神様。神様は立派な人間だけを愛するのではなく、どんな時も誰をも、どんな失敗をしても優しい心で許して下さるのである。

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「平和の君の誕生」イザヤ9:1-6 中村吉基

2700年前預言者イザヤが「闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」とイエスの生誕を預言した頃のイスラエルは、アッシリアに侵略され非情で残忍な支配をされており、「闇の中を歩む民」であった。故にイザヤの言葉に耳を貸す人はいなかったが、イザヤは「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」がおうまれになり、神は深い喜びをお与えになり、人々は喜び祝う、と続ける。その700年後、羊飼いのところに「ダビデの町であなたがたのために救い主がお生まれになった」と天使が告げる。「自己中心」という深い闇の中にいる私たちのために、光と調和をもたらすために来てくださった。神は世界の平和の実現のためキリストを通してお与えくださったのがクリスマスである。「自分さえよければ」という思いを棄て、苦悩や悲しみを「神様、救ってください」と祈ってみよう。私たちは弱さを抱え、たとえ小さな力であっても神の平和が実現するように主イエスと共に歩もう。

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「承認から証人へ」ルカ24:36-48 中村吉基

今日の箇所に「あなたがたはこれらのことの証人となる」とある。2000年以上前のイスラエルであった主イエスの復活を私たちが知っているのも、直接見た弟子たちに始まり「復活のキリストの証人」となった人々の「証言」が伝えられたからである。「その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」の中の「あらゆる国の人々に」は大切である。主イエスは全ての人と一緒にいてくださる。つい人を選んでしまったりするような醜い心を清めるのが聖霊である。私たちはもっと聖霊の働きを感じなければならない。十字架の後、喪失感と混乱の中にあった弟子たちは、はじめは信じられなかったが食事をとるイエスを見て復活がわかり、喜びの頂点に達した。「使徒言行録」に記されているようにたったの11人で「すべての人」に福音を伝えた。主イエスは今も、私たちを世界中に遣わされようとしておられる。普段の生活での悩みをうちあけてすっきりする場合があるが、自分の気持ちだけを考えていてはいけない。また遠くでおきたニュースをきいても何もできないと思ってはならない。祈ることや、声をあげることはできるはずである。11人の弟子たちが始めたように、私たちも重い腰を上げなければ何も広がっては行かない。礼拝はイエスの出来事を直接見聞きした弟子たちの「証言」を聞く場所である。一人ひとりが聖霊からの力を受け、教会を形成し、宣教に出かけていこう。

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「心が燃える経験」ルカ24:13-35 中村吉基

ルカによる福音書の終わりの部分である。クレオパともう一人が出会った旅人にナザレのイエスの遺体がなくなったことを話すと、その初対面の「旅人」にバカよばわりされ、教えをうける展開となる。そしてエマオで彼を無理にひきとめ食事をしている最中に、イエスだとわかったが、その時イエス姿は見えなくなった。その後2人は「心が燃えていた」という体験について話し合う。私たちが信じている神は高いところに鎮座しているものではなく、私たちの只中に近づいてこられる。礼拝では最初に招詞がある。辛い現実から集められ、み言葉を通して、主イエスから福音を告げられて 励まされて、そうして時にパンを割いてご自分を渡し、私たちのうちに共にいて下さる。復活の主に出会えるのが礼拝、礼拝には力がある。このことに気づいて、共に喜ぶことのできる礼拝者でありたい。

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「わたしを思い出してください」ルカ23:35-43 中村吉基

ゴルゴダの丘の上の3本の十字架のうち2本は悪事を働き死刑宣告を受けた二人の罪人もので、もう1本はイエスのものであった。罪人のうちの1人は、他の律法学者、議員や兵士と同じように「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と罵る。しかしもう1人はイエスが救い主であることをすぐに信じたのか「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」といい、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言う。イエスはそれに対し、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言う。その罪人がどのような人生をおくってきたのか一切問わず、心をいれかえ神へと方向転換しただけで救いの手を差し伸べられたのである。この「楽園」という言葉はパラディソス、エデンの園、つまり神と人とが結ばれて平和に暮らしている世界、それが楽園である。力をなくした状態の中でも、神が共にいてくださることに気づいたときそこはもう楽園である。受難週にあたり十字架に架けられたイエスが「父よ、彼らをお赦しください」と祈ったことを憶え、我々も「自分自身を傷つけた人」をゆるし、私たちが神のみ前でゆるすのはいったい誰なのかを考えよう。その時、我々は憎しみから解放されるのである。

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「私だけではなく、私たちすべてが」ルカ11:1‐13 中村吉基

弟子たちに請われてイエスが教えた祈りが、「主の祈り」である。ここに一番でてくる語は「わたしたち」である。「私ひとりの祈り」ではなくみんなの祈りだという教えである。それは旧約時代の共同体意識、神と民たる私たちとの考え方である。「必要な糧」という祈りも、栄養失調のために死亡する子どもの数が多かったこの時代に「わたしだけの糧」ではなく「わたしたちの糧」を祈っている。主イエスが食事をする場面はたくさん出てきますが、いつも誰かとパンを分かち合っておられる。今日の箇所では、どのような心で祈るべきかの教えもある。それが「求めなさい、そうすれば与えられる」である。忍耐強く「たたき続ける」ならば必ず門は開かれ、求めるものは与えられる。この箇所は物乞いの振る舞いを描写していると言われる。最下層に置かれていた社会的弱者と飲食をともにし、願いに応え、やがて彼らがいきいきと生きていくことができる共同体を生み出していく行動に結びついての祈りである。このことはいかに神が私たちを愛してくださっているかを思い起こさせる。この祈りを通して力を与えられている。それを人びとに運んでいくのが私たちに託された務めである。

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「すべての人を照らすまことの光」ルカ2:1-16 中村吉基

今年もクリスマスを迎えました。みなさんはなぜクリスマスを祝うかご存知でしょうか。イエスキリストの誕生日だからです。しかしなぜ彼の誕生を世界中にお祝いするのでしょうか?それはキリストがとても大切なことを教えてくれたからです。この世界で生きているすべての人は神の子だということです。自分もまわりの人も、孤独な人、病人、ホームレス、捕虜・・・もみな神の子であるという福音を知らせるためにお生まれになった。つい自分のことに集中してしまうが、1969年のベトナムで、今のウクライナで平和も求めて祈り続けている人がいる(いた)と忘れないことが大切である。この1年の混迷は来年も続くであろうが、私たちは神と結ばれて生きる特権を得て、神の子として生きることをキリストは教えてくださった。