「かみさまのもとにいる幸せ」ルカ15:11-31 なかむらよしき

創世記39:1-10;ルカによる福音書15:11-32

今日は子どもとおとながいっしょに、小さい子どもからお年寄りまでがここに集められて礼拝をお捧げしています。イエスさまはみんながいっしょに神さまをさんびして、「神さま、ありがとう」って感謝できることをお喜びになっておられます。

みんなが今、一番欲しいものは何ですか。ゲーム?…服?…アニメの本やDVD? さまざまなものがほしいよね。クリスマスを前にサンタさんにお願いしましょうか。

さて、今日のイエスさまのお話には、ある時、ある家の次男の息子が、お父さんに「僕がもらうはずのお金を今すぐ分けてください」と言いました。お父さんの財産を分けてもらうのは、お父さんが亡くなってからだと決まっていたからです。お父さんがまだ元気で生きているのに、お金をもらいたいという、とても失礼なことです。まるで「お父さんがいなくなればいい」と言っているようなものです。

弟はそのお金を持って都会に行き、楽しい生活を始めました。友だちもたくさんでき、毎日ごちそうを食べたり、遊んだりしていました。でも、弟はすぐにお金を使い果たしてしまいました。お金がなくなると、友だちもいなくなり、弟は一人ぼっちになってしまいました。そのうえ、食べ物にも困るようになり、豚のエサでも食べたいほどお腹がすいていました。

弟はしかたなくある人のところで豚の世話をする仕事をしました。しかし、その仕事はとてもみじめで、食べるものもほとんどなく、おなかがペコペコでした。弟はやっと、「お父さんの家では、雇われている人たちでさえ食べ物に困らなかったのに、僕はここで飢え死にしそうだ」と気づきました。そして、「お父さんのところに戻って謝ろう。もう息子と呼んでもらわなくていいから、雇われた人としてでもいいから帰ろう」と思ったのです。

そこで弟は、もう一度お父さんのもとに帰ることを決めました。「お父さんの家なら、たとえ家来としてでも食べ物をもらえるかもしれない」と思ったのです。お父さんのもとに帰る途中、弟はどうやって謝ろうかと考えました。

弟はとても反省していましたが、家に帰ったらお父さんが許してくれるかわからず、不安でした。けれども弟が遠くから帰ってくるのを見たお父さんは、息子が戻ってきたことに大喜びし、走っていって息子を抱きしめました。お父さんは弟が遠くから歩いてくるのを見つけると、喜んで走り寄り、弟を抱きしめました。お父さんは怒るどころか、「この子が無事に戻ってきた!」と大喜びで、お祝いのパーティーを開きました。

ところが、一方で真面目に働いていた兄は、弟が帰ってきたとき、家で開かれているパーティーの音楽を聞いて驚きました。弟が帰ってきたことを知り、お父さんに「僕はずっとお父さんのために働いてきたのに、弟だけが歓迎されるなんて納得できない」と言いました。兄は、弟が勝手に家を出て、財産を無駄遣いしたことに腹を立てていたのです。

そんな兄にお父さんは、「お前も私とずっと一緒にいるのだから、私の持っているものは全部お前のものだよ。でも弟は迷子になったのと同じだったが、無事に戻ってきた。それを一緒に喜んでほしい」と言いました。

実は、この話のお父さんとは、神さまのことです。神さまは、私たちがどんなに悪いことをしても、帰ってきてくれることを待っていて、優しい心で許してくださいます。私たちはつい、「何かをしてくれたら恩返しをしよう」とか「立派で正しい人だけが神さまに祝福される」と思いがちです。でも神さまはそうではなく、どんな私たちも愛してくださっているのです。

弟が戻ってきたとき、お父さんはもう弟を許していました。息子が反省したからではなく、ずっと最初から、帰ってくることを待っていたのです。そして、お兄さんに対しても、こう言いました。「お前はいつも私と一緒にいる。私の持っているものは全部お前のものだよ」。神さまも、私たちがいつもそばにいることを喜び、大切に思ってくださっています。そして神さまは最初にお話ししたサルマ(「サルマがないた」※。説教の録音をお聞きください)のことも、ここにいるみんな一人ひとりも大切で、かけがえのない一人だと愛してくださいます。

イエスさまが、この話で伝えたかったことは、神さまは誰でも、どんな時に、どんなことが起こっても、神さまのところに帰ってくるのを待ってくれているということです。どんなに失敗をしてしまったとしても、神さまは優しい心で許してくださいます。

※「サルマがないた」日本キリスト教海外医療協力会