Shimako F一覧

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「心と思いを一つにして」使徒4:32-37 中村吉基

今日の箇所は教会初期の記録であるが、まだ教会ではなく「信じた人々の群れ」と書かれている。彼らはイエスキリストを信じ、無所有を是としていた。彼らには「大いなる力」(ダイナマイトの語源になったデュナミス)、つまり神の恵みがあった。それをもってキリストの復活を宣べ伝えていたのである。また使徒たちは人々から非常に好意を持たれていたとあるが、「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった」と結んで読んだ方がいいだろう。彼らは土地や家うぃ売って代金を持ち寄り共同体各々に分配された」という。カルト教団に似た例があるが、所有するとそういう危険を犯してしまう弱さもあると覚えておかねばならない。しかし当時の教会では申命記にある「貧しい者はいなくなる」という神の約束が実現されていた。「ささげない」と言われた時、不要な物や余裕のあるものから出していないだろうか?神は独り子主イエスを出された。最初のキリスト者たちは神の模範に倣って、神の愛を実現していた。自分の前にいる様々な困難にある人に自然に愛の行いをすることができた。私たちの教会もそれに倣っていきたい。

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「誰に従うのか」使徒4:1-22 中村吉基

教会の最初期の宣教は困難を極めた。今日の場面は「裁判」である。復活を信じないサドカイ派や神殿の祭司たち、権力のある神殿守衛長は、「主イエスは甦られた」と宣べ、門の前の足の不自由な男を癒し、人々の共感を得て勢力をのばしているペトロとヨハネを、ユダヤ教徒を惑わせる行動ととり牢にいれ裁判にかけた。その場でペトロは聖霊に満ち溢れ、自分たち癒しの働きは主イエス・キリストの名によるもの、つまり、主イエスを死から甦らせた神の力と、その主イエスをキリストと信じる信仰によってこの癒しはもたらされたと答え、続けて、「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」「この方こそ、/『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、/隅の親石となった石』/です。・・・」と続けた。従うのが神なのか人なのかは大変に重要なことである。イエスが十字架にかけられた際に「私は知らない」と言ったペトロが「神に従う」ことを選択してるのである。日本でも第2次世界大戦時にギリギリの選択を余儀なくされた。人間社会では軽蔑され捨てらたイエスキリストが教会の「かなめ石」とされたのである。このかなめ石の主である主イエスを仰いでいきたい

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「キリストの名によって」使徒3:1-10 中村吉基

エルサレムの神殿の「美しい門」で物乞いをしていた生まれながらに「足の不自由な男」は、神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていた。決して門の中には入れなかった。そこを通ったペトロとヨハネは「金や銀はないが」と前置きし、「イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と言うと、その男は歩き回り、神を賛美し、一緒に境内に入り神を賛美した。施されたものが金と銀であればその男の当面は潤ったかもしれないがまた尽きれば元通りである。しかし使徒たちは、「イエス・キリストの名によって」永遠の救いを約束した。今日の箇所が教えていることは、金と銀ができることには限界がある、それには頼らずイエス・キリストを信じ、模範として生きることが大切である。私たちがすべきことは「キリストの名」を人びとに与えることが、教会がなすべきことである。