Shimako F一覧

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「神の国はあなたたちのところに」マタイ12:22-32中村吉基

口の利けなくなっていた人が主イエスによって癒される奇跡をみて、人々は「この人はダビデの子(待ちに待った救い主)ではないだろうか」と驚く。イザヤ書35章にある神の約束が主イエスによって実現した時でもあった。主イエスの人気が高まり行く先々に群衆は押し寄せるほどとなると、疎ましく思ったり、妬んだり、ストレートに大嫌いだとする人もでてきた。ファリサイ派もその一例である。彼らは奇跡は認めるが、その力を神ではなく悪霊の頭のものであると主張した。そうではないと、イエスを救い主と認め自分たちの権威を捨てなければならないからである。しかしイエスは「サタンがサタンを追い出せば内輪もめではないか」と反論し、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのかとも訊く。ファリサイ派は考えを新しくすることを恐れ神の力を悪霊の力としたが、それは聖霊への冒涜なのであると次の箇所に続くのである。イエス・キリストと私たちの出会いは、私たちの側が変化することが求められる。受難節が始まる灰の水曜日に「ちり」からできた存在であることを確認し、御独り子を与えるほどにこの世を愛し、十字架の死からご復活まで神の栄光を見せてくださった神に、罪をわび、ゆるしていただく。また謙虚さが足りないときにじっくり黙想をして神に方向転換をする力をいただきたい。「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」という言葉を信じて歩いて行こう。

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受難節第2主日礼拝 2023/03/05

本日の礼拝 旧約聖書:イザヤ書35:1-10 旧約聖書:マタイによる福音書12:22-32 説教:「神の国はあなたたちのところに」 中村吉基牧師 本日の集会 教会学校:9:00(ティーンズ科第2・第...

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「世直しへ召された者の心構えと佇まい」 マタイ10:5−15 陶山義雄

マタイ福音書第Ⅱ説教集の3回目のテーマは弟子派遣にまつわるテキストであるが、受難節第1主日に相応しい内容を備えている。まず、我々がここに在るのは宣教者の働きによるものである。彼らは遣わされる際に様々な困難に対しての備えと心の準備をしている。マタイを含めて他福音書にある同じ「12弟子派遣の説教」の記述を参照しながらイエスが話された御言葉に迫って行きたい。マタイ記者は当時のユダヤ教に対抗する思いをもって教会の働きを描こうとしているので、現実から、またイエスの言葉からもかけ離れてしまっている点がある。世直しへと召された者の佇まいとしてイエスの教えは、清貧の出で立ち、極貧者のような佇まい、それは救いを待ち望んでいる人々と同じ姿になる事に尽きる。イエスが弟子を遣わす際に語られた言葉は、今も私達と教会に生きて働く言葉である。そしてイエスの第一声で、弟子たち伝えるべきメッセージ「天の国は近づいた」は我々が心に明記すべき救いの知らせ、福音である。

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受難節第1主日礼拝 2023/02/26

本日の礼拝 旧約聖書:マラキ書 3:19-24新約聖書:マタイによる福音書 10:5-15 説教:「世直しへ召された者の心構えと佇まい」陶山義雄牧師 本日の集会 教会学校:9:00(ティーンズ科第2・第4主日9:5...

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「全世界を手に入れても」マルコ8:31-38 廣石望

ロシアによるウクライナ侵攻や、かつての満州でも巨大な権力の支配欲の暴走である。かつてのイエスの死もローマ帝国による「全世界を手に入れる」ことへの欲望があった。本日の礼拝では、マルコ福音書の受難復活予告を含む段落を手がかりに、弱い者たちの上に避けようもなく降りかかる暴力がどう理解されたのか、私たちに何ができるのかを、ごいっしょに考えたい。

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公現後第7主日礼拝 2023/02/19

本日の礼拝 旧約聖書:アモス書5:21-24 新約聖書:マルコによる福音書8:31-38 説教:「全世界を手に入れても」 廣石望牧師  本日の集会 教会学校:9:00(ティーンズ科第2・第4主日9:...

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「『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』」マタイ5:37、26:52 中村吉基

2/11は日本のプロテスタント教会の「信教の自由を守る日」。明治政府が日本書紀の記述をもとに天皇中心の歴史観で1872年に定めた紀元節は、第2次世界大戦後は廃止されたが1967年から「建国記念の日」として復活した。日本キリスト教団は戦時に体制側に擦り寄り信仰を捨て戦争に加担した反省があり同年のイースターに「戦争責任告白」を発表し、同日を「信教の自由を守る日」とした。今日の箇所「あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい」は「誓ってはならない」に続く言葉である。当時の誓いは身を滅ぼし命がなくなるようなものもあり、イエスはそのような事に神の名をみだりに使って誓うことなどは傲慢だと指摘した。命や物質的なものすべては神から預けられたものであり、自分の好き勝手にしていいものではない。命は仕事や国に捧げていいものではない。私たちには「拒否」する自由も与えられている。防衛費を増大させ、かんたんに戦争に加担するような国に対して決して無責任・無関心になるのでもなく「イエス」か「ノー」かを積極的に選び取り行動を起こしていきたい。