「最初の弟子たち」ヨハネ1:35−52 中村吉基

サムエル記上3:1−10;ヨハネによる福音書1:35−52

先週の箇所から物語は続いていきます。洗礼者ヨハネの2人の弟子が主イエスに従って行きました。洗礼者ヨハネは主イエスを指差して「神の小羊」だと言いました。他方で、数人の男たちが、洗礼者ヨハネがメシアであるのかを尋ねるために、エルサレムから彼の所へ遣わされました。彼は、「私はその声です。」と言いました(1:23)。そして自分が来たのは、人々にメシアが来られることを告げるためだけだと言ったのです。その翌日、洗礼者ヨハネは主を見て、人々に言いました。「見よ。世の罪を取り除く神の小羊。」(29節)だと。罪を取り除くために、メシアは罪なき小羊のように死ななければなりませんでした。メシアは、私たちが自分の罪のためにさばかれないように、ご自分の命を捨てて下さいました。こういうわけで、洗礼者ヨハネは、主イエスを「神の小羊」と証ししたのです。

「神の小羊」である主イエスとはいったいどのようなお方であるのか。ヨハネの話を聞いた、彼の2人の弟子たちは主イエスの後を追いました。どんな人たちだったでしょうか。しかしここには名前も記されていません。40節になってようやくそのうちの一人は「シモン・ペトロの兄弟アンデレ」だったと記されてあります。けれどももう一人は誰のことかわからないまま、物語は綴られています。この2人はイエスというお方に興味津々。そしていろいろな問題を抱えていたかもしれません。何かに押されるようにしてほとんど面識のない主イエスのあとをついていくのでした。「イエスに従った」という言葉は主イエスと同じ道を歩むということを意味します。つまり主イエスの弟子になったのです。

すると主イエスがくるりと振り向いて2人を見つめて、たった一言だけ尋ねます。

「何を求めているのか」(38節)。

そうすると彼らは、「ラビ(先生)、どこに泊まっておられるのですか」と言ったのです。不思議な返答に聞こえます。主イエスが問われたことの答えになっていないからです。しかし主イエスは「来なさい。そうすれば分かる」と言って。その通りに彼らはついていき、主がどこに泊まっておられたかを見たのです。そして彼らも同じところに滞在しました。

この2人が主と同じところに滞在したのは、主イエスの教えをじっくりと聞くためであったのでしょう。それほどこの2人は飢え、渇いていたのだと思います。

ある注解者はこう考えています。この2人が発した「泊まっている」という表現は、どういう立場に「ある」のかを示す語でもあることを考慮すると、(イエスに向かって)「あなたはどういう立場にあるのですか」と意訳することもできる。

そうです。ほとんど面識のないイエスに対して、この2人は従ってきたのです。本来なら、先生の話をじっくり聞いてから従うかどうかを決めても良いはずです。

さて、その次に出てくるのはペトロです。この2人の弟子のうちの1人、アンデレの兄弟でした。ペトロは使徒ペトロとして、後に弟子たちのリーダー、教会の指導者となっていきます。カトリック教会では初代の教皇とされている人物です。シモンという名前でしたが、この時主イエスから「岩」を意味するケファという名を与えられました(42節)。福音書の中では熱血漢として記されています。そのような人物ですから、最初に主に出会った一番弟子かと思いきや、そうではなく、彼の兄弟アンデレが「わたしたちはメシアに出会った」(41節)といいました。それを聞いて彼は主イエスのもとに馳せ参じたのです。アンデレはきっと大切な家族の1人であったシモンに伝道したのでしょう。実は他の福音書にはシモンとアンデレが漁をしているところに主がお通りになって「わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしよう」(マルコ1:17)と仰せになってそれに従っていくのですが、ヨハネ福音書はそういう描き方をしていません。兄弟アンデレがまず主に出会い、その出来事を通してのちのペトロは主に出会ったのです。このアンデレの言葉として記されてある「メシア」はここにも「油を注がれた者」という意味であると注釈がされていますが、「キリスト」と同じ意味の言葉です。これは何度となくお話をしている「イエスはキリスト」という最も短い信仰告白です。この信仰告白が一人一人のキリスト者を支え、後に教会の形成に繋がっていきました。

その翌日の出来事が43節から最後の51節までに記されます。ここにはフィリポとナタナエルという名前が出てきます。まずフィリポについてですが、43節で主イエスが彼を他の弟子たちと同じようにして「わたしに従いなさい」と招かれました。彼はアンデレとペトロと同じ出身地であったようです(44節)。それはベトサイダという町でありましたが、聖書の後ろの地図(新約時代のパレスチナ)にも地名が記されてありますが、ガリラヤ湖畔のカファルナウムから東に進んだところの町です。彼らはベトサイダの漁師たちであったとされています。

もう一方でとても不可思議なのが、その次に登場するナタナエルです。ナタナエルの名前はここ以外には登場しないからです。伝統的にバルトロマイという弟子の本名がナタナエルなのではないかともいわれています。フィリポとナタナエルが出会った場面が、45節以下に記されていますのでご覧ください。

わたしたちはモーセが律法に記し、預言者たちも書いてある方に出会った。それはナザレの人でヨセフの子、イエスだ」。するとナタナエルが「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは「来て、見なさい」と言った。

ここで「律法」「預言者たち」というのは「聖書」(私たちの呼び方では旧約聖書)のことを示すのですが、つまり聖書に書かれている方に出会った。そのお方は「ナザレの人でヨセフの子、イエスだ」とフィリポはいいました。ナタナエルはイスラエル人で、フィリポの話に対して、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」(46節)と答えるのです。旧約の中に「ナザレ」の地名が出てこないことをナタナエルはよく知っていました。ここからも聖書を熟知していた人物であることが窺い知れます。私たちも知っているように、旧約でメシアが生まれることになっていたのはナザレではなくベツレヘムです。それはベツレヘムがダビデの町とされていたからです。ナタナエルは聖書をよく読んでいたのでしょう。

47節以下のところです。

47イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」48ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。49ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」

「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言っていたナタナエルは「あなたは神の子です」と告白するに至るのです。ナタナエルは主イエスに「まことのイスラエル人だ」と褒められたから口をついて信仰告白をしたのでしょうか。

ちなみに今日の箇所には「イエス」というお方をいくつもの言葉を用いて表しています。「神の小羊」「ラビ」「メシア」「神の子」「イスラエルの王」そして終わりの51節に「人の子」という言葉が出てきます。これは全て主イエスを表現する言葉であり、時代を超えてキリスト教会でも大切にされてきた言葉です。

終わりに50節以下をご覧ください。

50 イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」

「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言っていた彼は「あなたは神の子です」と主にとらえられた一人になったのでしょうか。この時のナタナエルは自分のことを言い当てられた驚きと感動で、口をついて「神の子」と言ってしまっただけだったのでしょうか。ここで主イエスは一枚上手(うわて)でした。ナタナエルの心の中を見ていたかのようです。

今、私たちは新年を迎えて、マスコミやネットなどでも「2024年の予測」のような番組とか記事をよく目にします。その予測が当たっていたらその人を信じるし、外れたら信じない、もしかしたらナタナエルの中にイエスに対してそういう気持ちがあったのかもしれません。その彼の「軽さ」というのでしょうか。浅はかなところを主はよく理解しておられたのではないかと思うのです。それが「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」という言葉に繋がっているのでしょう。

そして主イエスはこう言われました。51節です。

「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」

ここでは創世記28章に記されている「ヤコブの夢」の話が取り上げられています。ヤコブは夢で地上から先端が天にまで達する階段で天使たちが上下するのを見ましたが、それは彼の子孫たちに対する祝福を意味するものでした。しかし主イエスの言葉では階段ではなく「人の子」となっています。これは主イエスが天と地――すなわち神の世界と人間の世界を結び、人間を神のもとへと招いてくださる約束の言葉です。

今日の箇所だけではありませんが、人々が主イエスご自身にあった時の輝きやその言葉の力強さとか、威厳などは聖書を手にして、物語を辿るだけでは伝わりにくいものがあると思います。今日の箇所に登場した人たちはイエスというお方との出会いを経験しました。その中で自分の中で何かが変わったのでしょうか。それは何かわからない。言葉で表現できるものではないかもしれません。私たちは「知らないもの」に対して恐怖を覚えます。それだけではない、知らないだけで嫌悪感を抱いたり、憎悪になったり、私たちは未知のものを恐れます。しかし未知のものを知る(主との出会い)ことによってそれはそれぞれの中で平安な出来事に変えられていきました。それが神の救いに与(あずか)ることに繋がったのです。