降誕前節一覧

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「神の言葉に委ねる」創12:1-9 中村吉基

「あなたは生まれ故郷、父の家を離れてわたしが示す地に行きなさい」という神の声をきいてアブラハムが実行したのは彼が75歳の時であった。彼は無鉄砲であったのではない、ひたすら神の言葉に従うと決心していたのである。彼の神さまに委ねて生きる姿に学ぶべきである。召命とは「神が自分に何を望んでいるのか」を考えることだが、それを応えて従うことが献身である。私たちの内面は「執着」や「安定」を求めてしまいがちであるが、神さまは私たちを呼んでくださっている。神さまは私たちに必要なものをすべて備えてくださっていることを信じてみ言葉を信じ、神さまが示す地へ行けるようにしたい。

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「人の心に刻まれる契約」エレミヤ31:27-34 中村吉基

若くして預言者となったエレミヤは、その若さゆえかあまり人に受け入れられず、神を恨んだりもするが、神はエレミアを支え用い新たな方向に民を導く。エレミアがその使命を受容していく姿はイエスの受難の姿とも重なる。2人には、自らの道を進むことによって人間を何としても救いへと導こうとする「愛」を感じる。今日の箇所でエレミアの言う「新しい契約」とはモーセによって結ばれた契約をイスラエルの民が破棄したため再び結びし、石ではなく人の胸に授けられ心に記されたのである。この契約の基盤は「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」で、いわば「神の親宣言」である。そして「小さき者も大きい者も」とあり、貧富、性差もなくひとりひとりが大切にされるとある。そして「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」と続き、過去の不義を帳消しにし、神と民の新しい関係を築くということである。今日の新約の箇所には「「キリストは新しい契約の仲介者」とある。神が送ってくださったキリストが私たちの新しい契約の完成者である。このことを信じて来週からはじまる待降節を迎え、希望を持っていきたい。

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「子どもをしゅくふくするイエスさま」イザヤ11:6-8 マルコ10:13-16 中村吉基

(子ども祝福礼拝で教会学校と合同礼拝)預言者イザヤは今日の箇所で驚くべきことを言っている。こんな光景を私たちは知らない。私たちのまわりには「強い人」と「弱い人」がいる。豊かさ、健康、才能…その時の状況とあわせて立場は変わる。弱い人は苦しく、強い人にあわせて生きていくのはつらいことだ。しかしイザヤはそのように安心して毎日を過ごせる平和な日々が来るだろうと、そこに神さまの栄光が輝くという日が来ると伝えた。さて今日の新約の箇所はイエスのまわりにたくさんの人が集まっていた。中には子供の病を治したい親もたくさん集まっていた。弟子たちは叱ったが、イエスは優しく子ども達を招いた。もうすぐクリスマス。神のひとり子イエスさまは私たちの世界に来てくださった。神さまが私たち人間という弱い者に合わせてくださったということだ。私たちもそれを知り、他の誰かのペースに合わせてともに生きることができれば幸いである。

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「朽ちないもの」コリントI15:30-53 廣石望

キリスト教は復活のキリストを頭とする「死ねる者たち」と「生ける者たち」の両方から成る共同体である。「蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し」という対比で始まる今日の箇所は、キリストの運命こそがすべての人間の運命にとってモデルないし雛形というパウロの言葉である。近代以降の私たちに他者との命のつながり、ましてや失われた命との交流は可能だろうか?これに対してパウロがもっているイメージは「死者は復活して(/起こされて)朽ちない者とされ、私たちは変えられる」とあるように「変身」である。それ以降も読むと私たちと死者たちの交流が新しく回復されることが含まれる。神の裁きを介して新しく創られ解放される。「朽ちないもの」とは神による和解の達成、それを信じる私たちの死者たちへの連帯、またこの世で傷つけられている小さな命のための祈りである。

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「インマヌエル」マタイ1:18-25 中村吉基

引き続きマタイから、今週はヨセフである。いいなずけ(12,3歳頃に約束される)であったがマリアの懐妊のを知り「戸惑い」「考え込」んでしまう。なぜなら当時の律法に反してしまうからである。しかし夢で天使の言葉をききヨセフはマリアを妻として迎える。これは神のご計画であり、普段から神への信頼を篤いマリアとヨセフも選ばれたのである。このヨセフの決断によって、私たちは主イエスをインマヌエルと呼ぶことができる。夢の言葉は、今の私たちにも語られている。主イエスはいつも私たちと共にいてくださる。争いや貧困などで今よりも一人の子どもの小さないのちが誕生するのにしてもさまざまな困難があった。その中でヨセフとマリアに喜んで受け入れられた命を心に刻み感謝と喜びをもって救い主イエスをお迎えしよう。

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「喜び、ひろげよう」マタイ11:2-12 中村吉基

アドヴェント3週目喜びの主日と呼ばれる日を迎え、先週に引き続き洗礼者ヨハネである。既にヘロデ王によって牢にあったヨハネはイエスの活躍を耳にしすぐに弟子を送り、彼が救い主かどうかを確かめる。想像していた強い指導者ではなかったからである。遣わされた弟子に対しイエスはイザヤ書をひいてお答えになった。その中にある「貧しい人」とはたんに経済的に困窮しているだけではない。障害など様々な理由から自由を失っている、しかし神様は救ってくださるという希望を見失わない人である。人生の困難や世界で起こる戦闘などで不安もあるが、ヨハネが「来るべきお方」と呼んだ救い主が友となってくださっている。希望を失なってはならない。ヨハネは自分の使命をわきまえて最後まで忠実に果たした。イエスが「偉大な者」と言った所以である。ヨハネに倣って神の愛を周りに伝えていくことが私達のつとめである。クリスマスを前に一人でも多くの人に神の愛を伝えよう。

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「神に心を向け直す」マタイ3:1-12 中村吉基

今日と来週の礼拝では洗礼者ヨハネの記事が朗読されるが、ヨハネに注目するためではなくヨハネが指差した救い主を見るためである。この箇所はルカ福音書にもあるが、マタイの方が迫ってくるものがある。まず命令形で「悔い改めよ。天の国は近づいた」とある。悔い改めというのは、聖書では心も体も「神に心を向け直す」ということである。そこには人間は神に背を向けて生きてしまうという前提がある。ヨハネは荒れ野で声をきき、悔い改めを説いた。イエスも伝道開始時に同様のことを言っている。神と私たちとが出会うことを導いてくださってるのである。神を感じるのは願いが実現した時ではなく闇の中や荒れ野のような状況である。私達が背を向けてもヨハネが示したように神の使者はまもなくおいでになる。ただ何となしにクリスマスを迎えるのではなく、自分自身の心が本当に神に向かっているのか糾明しながら待降節の一日一日を歩みたい。

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「わたしを思い出してください」ルカ23:33-43 中村吉基

待降節前の今日は伝統的に「王であるキリスト」にちなんだ聖書箇所が読まれる。おとぎ話や海外の教会にある像などで「王」の印象はあるかもしれないが、今日のルカの福音に描かれた主イエスの言動から本当の王を聴いていきたい。十字架の主イエスを最初にあざ笑うのは議員たち、兵士たちも同様であり、ついには十字架につけられていた二人の犯罪人のひとりもののしりはじめる。頭にはユダヤの王と書き、彼らの言い分は「本当の救い主なら自分を救ってみろ」と言い、酸いぶどう酒を飲ませて侮辱する。彼らはイエスが本当の救い主であるはずがないと思っている。彼らは、私達もよくやってしまうが、神を試している。神はやろうと思えば、力あるヒーローのようにこの状況を変えることができた。しかしそのような「力で屈服させる」のは神のやり方でもイエスの生き方でもない。神は決して私たちを操ろうとはされず、人間に対して心に愛をもって迫る。イエスの生涯はそのためのものであったともいえる。主イエスは迫り来る死を前に悲しむ女性たちを慰め、十字架につける兵士達のゆるしを願い、自分の罪を悔いているもう一人の犯罪人には救われることを宣言された。そのような主イエスの姿に私たちは愛を見ることができる。「自分のために、自分のことだけに」固執するのではなく、主イエスと一致して歩んでいく人生になることを神は望んでおられる。ルカの福音書だけに記されているこの罪人の言葉「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」に対し、イエスは神の国の王として約束した。この罪人の祈りを私達の祈りとしたい。そして自ら十字架への道を歩んだ主イエスこそが私たちをあらゆる悪の支配から解放し神の国へと招いてくださることを信じていきたい。

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「あいしあいなさい」コヘレト12:1 中村吉基

(子供祝福礼拝。お子さんと一緒の礼拝です)。F牧師の娘「るつ記」さんは、一生涯を日本人のために捧げたキュクリッヒ宣教師を小学生の頃から尊敬し、やがて大きくなってから外国人のために働く夢をかなえるべく外国で奉仕活動をしていた。大学卒業後フィリピンに留学し海岸で子供たちと水浴びをしていた際底流に巻き込まれた子供を助けるため亡くなってしまった。今日の聖書箇所は「互いに愛し合いなさい…友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」というイエス様の言葉である。愛し合うとは目の前にいる人を「たいせつにする」こと。自分のためだけに神様が下さっ命を使わないこと。自分のことだけ考えそうになったら「神さま」「イエスさま」ってお名前を呼んで、力をいただくこと。私達のそばで助けを必要としてる人がいるはずで、その人たちをたいせつにすることがイエス様の教えにある「愛し合うことにつながる。

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「虹と弓」寒河江健

聖書日課では本日の主日礼拝の主題は「保存の契約(ノア)」。ノアが箱舟の後祭壇を築き礼拝すると、神は彼の息子たちを祝福し保存の契約をたてて証拠とし、「雲の中にわたしの虹を置く」とされた。しかし虹というのは日本語訳であり、英語では単にザ ボウ(弓)と記されている。弓とは一般に戦闘に使われる。神さまの目に悪とされることばかり行ってきたために人間を動物もろとも滅ぼした、つまり神の弓がひかれたのである。素晴らしいのは、生き残ったのはノア一族とて普通の人間であり、神さまの前に正しい者ではない。しかしそれを赦し弓をひかないために神は雲の中に弓を置いた。イスラエルの民が住むパレスティナには河川氾濫を起こすような川はない。この話の成立はバビロン捕囚後と考えられている。約50年という長い年月を経て、神殿まで壊されて荒れ果てた故郷エルサレムに帰還した彼らの希望となる神の言葉が必要だったのであろう。普通の人間であるノア一族が繁栄したのは神さまの祝福あってこそ。長い捕囚の後エルサレムに帰還し、二度と高慢にならず謙遜に生きていこうというという思いで物語を紡いだのであろう。今日の新約の箇所「体のともし火は目である 」というイエスの言葉である。私たちの目は雲の中においた弓を見て私たちと交わした永遠の約束を見る。慈しみ深い神を見つめ、謙遜の思いを忘れないように主イエスの謙遜を衣として身にまとってこそイエス・キリストを全身に輝かせて辺りを明るく照らすことができるのであろう。