「わたしを思い出してください」ルカ23:33-43 中村吉基

エレミヤ書23:1-6;ルカによる福音書23:33-43

来週から待降節(アドヴェント)に入りますが、待降節は教会の新年と考えますので、今日は差し詰め1年の締めくくりの主日を迎えました。この日、教会では伝統的に「王であるキリスト」にちなんだ聖書箇所が朗読されます。私たちは王制の国に生きてはおりませんから、王様を身近に感じることがないでしょう。しかし、幼い日に聴いたおとぎ話などで何らかの「王様」に対するイメージがあるかもしれません。今日の礼拝の最初の賛美歌で「かんむり(冠)をささげて 主とあがめよ」と歌いましたが、私たちの勝手な王様のイメージを主イエスに押し付けるのは好ましくないことです。よく海外の教会などに行きますと少年の主イエスが冠を被って豪華なマントをまとっている像を見ることがあります(プラハの幼子イエスなど)。キリスト教の美術は各々の時代の服飾などの様式が反映されていたり、また創作した人の信仰も表されていますから、これも実際の主イエスからは程遠いものとなっていることがあるわけです。

今日のルカの福音に描かれている主イエスの言動から、本当の王とはどのようなお方なのかをご一緒に聴いていきましょう。

場面は、主イエスが敵対者に捕らえられ十字架にお架かりになっているところです。今日の箇所だけではなく、その前の主イエスの十字架への道を描いた記事を、それぞれでお読みになることをお勧めします。

十字架にかけられた主イエスを最初にあざ笑うのは議員たちでした。「もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」(35節)。そう言います。この箇所でほかの聖書ではこのように訳されています。「こいつは他人を救ったんだ。自分で自分を救えばいい」(本田訳)。「他人を救ったのだから、自分も救ったらいいだろう。神に選ばれたキリスト様なら、そのくらいのことはできるだろうに」(柳生訳)。この時議員たちの目の前にいるイエスという男は、弱々しくうなだれていて到底、ユダヤ人の王やメシア(救い主)には見えなかったのです。それは兵士たちも同じでした。36節のところから「酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。《酸いぶどう酒》というのは当時の庶民がよく飲んだもののようです。「ワインビネガー」と注釈に書いてある聖書もあります。安物の酒を「ユダヤ人の王」に突き出して侮辱しました。おそらく綿(わた)を棒などの先につけて酒を浸したものを突きつけたのでしょう。この酒は主イエスの苦しみをわざと長引かせるために、気付け薬の役割がありました。

その次に、主とともに十字架につけられていた二人の犯罪人のひとりが主イエスをののしりはじめます。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」(39節)。

ここまでを振り返ると、議員も兵士たちも犯罪人も「本当にイエスが救い主であるのか」という問いに、彼らの思いは集中しています。裏返して言えば、「この目の前にいて、十字架刑で弱々しく死んでいこうとしているイエスが救い主だなんてありえるはずがない」というものでした。

人間の目は力のある「ヒーロー」に目を奪われがちです。もしかしたら自分の生活のすべてを変えてくれるかもしれないなどと、強い力に心を奪われていきます。しかし、これは私たちの持つ愚かさであり、弱さなのです。議員も兵士たちも犯罪人のひとりも神を試そうとしました。私たちにもこういうところがあります。「神が○○をしてくれたら、~をしよう」とか「この祈りに答えてくれたら神の存在を信じよう」と神を常に試そうとしています。

神は何でもお出来になる方です。人間を救うために力ずくで罪人の心を変えたり、主イエスを十字架から下ろし、敵対する勢力を一蹴することもできたでしょう。そうすれば十字架の主イエスに向かって嘲っていた人々も主イエスを救い主と崇めたかもしれません。しかしながら、神はどの方法もお取りにはなりませんでした。なぜなら人を「力で屈服させる」のは、神のみこころでも、主イエスの生き方でもなかったからです。私たちは神のもとで自由に生きることがゆるされています。神は決して私たちを操ろうとはされないのです。もし神が、権力者が支配するかのように、私たち人間を従わせたとすれば私たちの間にイエス・キリストを送られたこと自体が無駄になります。神は人間に対して、「あなたもわたしが造った大切な一人」だと一人ひとりの心に愛をもって迫ることでした。主イエスの生涯とはそのためにあったと言えます。

先ほどもお話したように、このルカによる福音書の22章のあたりからの受難物語をぜひお読みいただきたいと思います。そこではご自身の受難の苦しみを訴える主イエスの姿は出てきません。それどころか、主イエスは迫り来る死を前にして、悲しむ女性たちを慰めました。23章28節から「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。人々が、『子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言う日が来る」と仰せになりました。またご自分を十字架に釘づけにしようとする兵士には「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」とゆるしを願い、そして今日の箇所の最後に出てくる、自分の罪を悔いているもう一人の犯罪人には「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(43節)とその犯罪人が救われることを宣言されました。主イエスの言葉にご自分の苦しみを訴えるようなことは一切ありませんでした。むしろ周りの人々を励まし、希望を与える主イエスの姿にこそ、私たちは愛を見ることができます。もちろん主イエスは私たちの持つ苦しみをご存知です。たとえ私たちがそのことを口に出さなかったとしても、私たちの心のうちをすべて主イエスは知っておられます。主イエスの姿は身をもって私たち人間が互いに愛しあうことを教えています。そして私たち一人ひとりが愛の人として、これまでの生き方を変えて、主イエスと一致して歩んでいく人生になることを神は望んでおられるのです。

私たちは自分のことを挙げ始めたらきりがありません。口を開いたら100パーセント自分の文句や愚痴や「自分、自分」といった態度。今年はルカによる福音書を通して学んできましたけれども、この福音書の主イエスの行いや数多くのたとえ話を通しても、「自分のために、自分のことだけに」固執する人間の醜い習性もみ言葉を通して、知らされたのではないかと思います。

さて、今日の箇所には、他の福音書には伝えられていないエピソードが含まれています。それは自分の非を認めたほうの犯罪人が主イエスにこのように言う場面です。42節「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」。この犯罪人の男だけは、主イエスをまことの救い主であると信じて願いを託しました。主イエスは男にこう言いました。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。楽園というのは神の国のことです。この男も神の国の大切な一員として迎えられることを主イエスは約束されました。ここから主イエスが地上の権力にまみれた王ではなく、神の国の王として、私たちをそこへと招いてくださる王としての姿が明らかにされました。

私たちはこの一年を振り返ってみて、果たして自分が何を大切にしてきたのか、あるいは何に依り頼んできたのかを考えてみる必要があります。私たちにとって本当の愛を示し、もっとも信頼できるお方はイエス・キリストをおいてほかにはありません。自ら十字架への道を歩み、苦しみの死を身に受けた主イエスこそが私たちをあらゆる悪の支配から解放し、神の国へと招いてくださいます。そこには世界のあらゆる人間による権力でさえも歯が立たないのです。

いよいよ来週から主イエスの降誕と再臨の時を待ち望む待降節(アドヴェント)が始まります。本物の王であるイエス・キリストを待ち望みつつ新しい1週間を過ごしましょう。そしてあの犯罪人の一人が言った「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」との言葉を私たちの祈りとしていきましょう。