「喜び、ひろげよう」マタイ11:2-12 中村吉基

イザヤ書35:1-10;マタイによる福音書11:2-12

今日は待降節の中で「喜びの主日」と呼ばれる日です。クリスマスを10日あまり先に控え、ほのかに喜びが湧いてくるような、そんな一日です。待降節中は紫や紺色を用いて、悔い改めの時として静かに過ごしますが、今日はそれに少し、クリスマスが近づいてきたということからバラ色を用います。

先週の礼拝で私たちは「悔い改めよ、天の国は近づいた」との洗礼者ヨハネの言葉に聴きました。ヨハネは荒れ野から民衆に「わたしの後から来る方」として、救い主が来られることを告げ知らせ、神に立ち戻るように促し、救い主をお迎えする準備をするように訴えました。ちょうど今私たちは待降節にあたって、悔い改め、主イエスが来られる準備をしていますが、これはヨハネのメッセージに重なるものです。しかし、その後ヘロデ王の悪事を告発したために牢に捕えられてしまいました。今日の箇所はその場面です。しかし、ヨハネは牢獄に捕えられていても希望を見失わなかったのです。神の正義の力によって悪を滅ぼし、敵対者たちを退けることを願っていました。ある時、ヨハネは牢獄の中で、主イエスの活動の噂を耳にします。朗報が飛び込んできたようにヨハネは心躍るような気持ちだったでしょう。すぐさま自分の弟子たちを主イエスのもとに送ってこう尋ねさせます。3節のところです。

「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」

ヨハネは心躍らせる反面、少し疑問になるようなこともイエスに抱いていたのです。なぜなら救い主と言えば、今パレスティナが支配を受けている大国ローマの圧政から解放してくれる政治的な指導者、あるいは武力によって支配者・権力者たちを打ち負かしてくれるような強い指導者のイメージがあったからです。しかし、イエスのほうは、貧しい人たちを相手にして、身体の弱い人、傷ついている人、お年寄り、女性や子ども、しょうがいを負っている人の友となり、味方となっておおよそ当時の人が抱いていた救い主のイメージとはかけ離れていたからです。優しく柔和な微笑み、憐れみ深く、またへりくだった姿は人びとにはどうしても救い主には見えなかったのです。

しかし、私たちは同じマタイの3章14節を読むときに、「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」と主イエスの洗礼の申し出をヨハネが断っていることを見る時に、ヨハネはイエスが救い主であることを知っていたからでした。しかしなぜなのでしょう。一説には、この時投獄されていたヨハネはまもなく死を迎えることを予感していました。ですから切羽詰まって自分の弟子たちを救い主イエスの弟子へと導かなければならなかったために彼らを実際にイエスのもとに送ったということも考えられるのです。しかし、そうすると4節の「イエスはお答えになった。行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。」という主イエスの言葉は不自然になります。

けれどもヨハネが疑問を抱いたのも無理はありません。民衆の間にも、イエスが「罪人」とされている人々と食事を共にしたり、徴税人を弟子としたり、ある時は断食をしなかった、イエスに失望したのはファリサイ派だけではなく、それは故郷のナザレの人々であったり、弟子たちであったり、へりくだった救い主に皆失望しました。ですから洗礼者ヨハネはこのようなメシア像に失望した最初の人だったかもしれません。

さてイエスのもとに遣わされたヨハネの弟子たちに主イエスはイザヤ書の一節を引用して語ります。4節です。

「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」

ここで「貧しい人」というのは、たんに経済的な理由で困窮している人だけを指しているのでありません。そのことも含めてさまざまな理由から自由を失っている人をさします。「目の見えない人」も「足の不自由な人」も、身体的なしょうがいを指すのではなく、「貧しい人」と同義語です。かんたんに申しますと今、苦しくて、苦しくて仕方がないけれども、その中に、「神さまは救ってくださる」(イエスの名の語源)という希望を見失わない人のことです。それはヨハネのいう「悔い改め」た状態のことであって、神に背を向けていることと反対の状態を指します。

私たちが牢獄で死を迎えようなどと言う経験をするということはこれからもきっとないことでしょう。世界中に政治的な抑圧を受けている人たちがたくさんおられます。例えばミャンマーのアウンサン・スー・チーさんのように、今この時も自由を奪われ続けている人たちがいます。しかし、スー・チーさんを支えているのは、やはり彼女が希望を失っていないという一語に尽きるでしょう。そして正義が必ずや実現するということを信じてやまないということに生きる力を与えられているのではないかと思うのです。

今の私たちはこのように自由を奪われるような生活には程遠いかもしれません。けれども私たちの人生は困難があり、苦しいことがあり、悲しいことがあり、病気になることもあり、いつも私たちはこういうことが起きるとキリキリ舞いさせられ、前のものが見えなくなったり、足が掬われたりして一歩も進めないということがあるのではないでしょうか。そして今、ウクライナをはじめ、朝鮮半島や台湾のことなどで緊張が走っていますが、私たちを不安に陥れます。しかし私たちは希望を失ってはいけないのです。ヨハネが「来るべきお方」と呼んだ救い主が私たちの友となってくださったからです。

そうです。私たちは一人ではないのです。私たちには神が共にいてくださり、そのことによって希望と信頼と愛が生まれるのです。

11節のところで主イエスは、「およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった」と仰せになりました。なぜ洗礼者ヨハネは偉大なのでしょうか。まずそれは自分自身の使命が何であるかをよくわきまえていました。ヨハネは自分の役割が何かをよく知っていました。だからこそヨハネは「荒れ野に叫ぶ者の声」として「悔い改めよ、天の国は近づいた」と人々に説き、すべての人がもれなく救いに招かれていることを告げ知らせ、そのしるしとして洗礼を授け、救い主キリストの先駆者として最後までご自分の使命を忠実に果たし、へロデ王の前でもはばかることなく、真理と正義のために殉教できたのでしょう。

私たちのつとめはこのヨハネに倣って神の愛を周りの人に伝えていくことです。ずいぶん以前のことになりますが、私はアドベントの期間に友人の牧師と2人で、武道館で行われたオノ・ヨーコさんのライブを行ったことを思い出しました。その時のヨーコさんの言った一言、「たとえばお姉さんに今日、電話をして『元気にしている』っていうだけでそこに愛と平和は実現する。私たち一人一人のすることは小石を海に投げ入れるようなことだけれど、みんなでそれをすれば大きなことができる」という言葉に感動したのを覚えています。マザー・テレサも同じような言葉を遺しています。

わたしたちの仕事はすべて大海の中の一滴にしか過ぎないものです。でも、この一滴を注がなくては、海の水は、一滴分減るのです。あなた自身にも同じことが言えます。」

“Drop in the Ocean”私の大好きな言葉です。「一石を投じる」という言葉もありますけれども、石を投げるとそれは暴力になるので、「しずく」を投げて意志を示すのです。

私たち一人一人に神さまの愛が息づいています。この神の愛を私たちが誰かに届けるのです。なぜなら私たちが生まれてきた使命は神の愛の示すためだからです。ぜひクリスマスを前に、一人でも多くの人に神の愛を伝えましょう。それが「喜び」につながるのです。今日クリスマスを前に私たちはこの喜びの主日、盛りだくさんの喜びを携えてここから新しい1週間に出かけて行きましょう。