中村吉基一覧

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「喜び、ひろげよう」マタイ11:2-12 中村吉基

アドヴェント3週目喜びの主日と呼ばれる日を迎え、先週に引き続き洗礼者ヨハネである。既にヘロデ王によって牢にあったヨハネはイエスの活躍を耳にしすぐに弟子を送り、彼が救い主かどうかを確かめる。想像していた強い指導者ではなかったからである。遣わされた弟子に対しイエスはイザヤ書をひいてお答えになった。その中にある「貧しい人」とはたんに経済的に困窮しているだけではない。障害など様々な理由から自由を失っている、しかし神様は救ってくださるという希望を見失わない人である。人生の困難や世界で起こる戦闘などで不安もあるが、ヨハネが「来るべきお方」と呼んだ救い主が友となってくださっている。希望を失なってはならない。ヨハネは自分の使命をわきまえて最後まで忠実に果たした。イエスが「偉大な者」と言った所以である。ヨハネに倣って神の愛を周りに伝えていくことが私達のつとめである。クリスマスを前に一人でも多くの人に神の愛を伝えよう。

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「神に心を向け直す」マタイ3:1-12 中村吉基

今日と来週の礼拝では洗礼者ヨハネの記事が朗読されるが、ヨハネに注目するためではなくヨハネが指差した救い主を見るためである。この箇所はルカ福音書にもあるが、マタイの方が迫ってくるものがある。まず命令形で「悔い改めよ。天の国は近づいた」とある。悔い改めというのは、聖書では心も体も「神に心を向け直す」ということである。そこには人間は神に背を向けて生きてしまうという前提がある。ヨハネは荒れ野で声をきき、悔い改めを説いた。イエスも伝道開始時に同様のことを言っている。神と私たちとが出会うことを導いてくださってるのである。神を感じるのは願いが実現した時ではなく闇の中や荒れ野のような状況である。私達が背を向けてもヨハネが示したように神の使者はまもなくおいでになる。ただ何となしにクリスマスを迎えるのではなく、自分自身の心が本当に神に向かっているのか糾明しながら待降節の一日一日を歩みたい。

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「その日、その時を知る神」マタイ24:36-44 中村吉基

待降節にはいった今日の箇所は直接クリスマスではなく終末の時(その日、その時)の再臨についての教えである。イエスが語っているのはノアの話、平和な時代に人々は自分の生活ばかり優先し放縦な生活を送っていたがノアだけは神の御心を受け止めた。そしてあの洪水である。続く40節での譬えは人の子の到来の日のこと。いつ来るかは誰にもわからないが「思いがけない時に来る」と書かれている。そのために目を覚まし、わからないことをわきまえて、用意していなければならない。今日の旧約の箇所のイザヤは「終わりの日に」と救いの日の訪れを表現している。もはや戦うことを学ばないとイザヤは宣言している。待降節は、クリスマスにむけて信仰を省みるとき。地上に平和がもたらすために神が願い、イエスが来られた。この世界が平和になるように待ち望み平和を作り出す人になることができるように祈りたい

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「わたしを思い出してください」ルカ23:33-43 中村吉基

待降節前の今日は伝統的に「王であるキリスト」にちなんだ聖書箇所が読まれる。おとぎ話や海外の教会にある像などで「王」の印象はあるかもしれないが、今日のルカの福音に描かれた主イエスの言動から本当の王を聴いていきたい。十字架の主イエスを最初にあざ笑うのは議員たち、兵士たちも同様であり、ついには十字架につけられていた二人の犯罪人のひとりもののしりはじめる。頭にはユダヤの王と書き、彼らの言い分は「本当の救い主なら自分を救ってみろ」と言い、酸いぶどう酒を飲ませて侮辱する。彼らはイエスが本当の救い主であるはずがないと思っている。彼らは、私達もよくやってしまうが、神を試している。神はやろうと思えば、力あるヒーローのようにこの状況を変えることができた。しかしそのような「力で屈服させる」のは神のやり方でもイエスの生き方でもない。神は決して私たちを操ろうとはされず、人間に対して心に愛をもって迫る。イエスの生涯はそのためのものであったともいえる。主イエスは迫り来る死を前に悲しむ女性たちを慰め、十字架につける兵士達のゆるしを願い、自分の罪を悔いているもう一人の犯罪人には救われることを宣言された。そのような主イエスの姿に私たちは愛を見ることができる。「自分のために、自分のことだけに」固執するのではなく、主イエスと一致して歩んでいく人生になることを神は望んでおられる。ルカの福音書だけに記されているこの罪人の言葉「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」に対し、イエスは神の国の王として約束した。この罪人の祈りを私達の祈りとしたい。そして自ら十字架への道を歩んだ主イエスこそが私たちをあらゆる悪の支配から解放し神の国へと招いてくださることを信じていきたい。

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「あいしあいなさい」コヘレト12:1 中村吉基

(子供祝福礼拝。お子さんと一緒の礼拝です)。F牧師の娘「るつ記」さんは、一生涯を日本人のために捧げたキュクリッヒ宣教師を小学生の頃から尊敬し、やがて大きくなってから外国人のために働く夢をかなえるべく外国で奉仕活動をしていた。大学卒業後フィリピンに留学し海岸で子供たちと水浴びをしていた際底流に巻き込まれた子供を助けるため亡くなってしまった。今日の聖書箇所は「互いに愛し合いなさい…友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」というイエス様の言葉である。愛し合うとは目の前にいる人を「たいせつにする」こと。自分のためだけに神様が下さっ命を使わないこと。自分のことだけ考えそうになったら「神さま」「イエスさま」ってお名前を呼んで、力をいただくこと。私達のそばで助けを必要としてる人がいるはずで、その人たちをたいせつにすることがイエス様の教えにある「愛し合うことにつながる。

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「何事にも時がある」コヘレト3:1-8 中村吉基

今日は先に天に召された聖徒の皆さまを記念しつつ、ご遺族の方々、関係者の方々をお招きし、礼拝を捧げている。 聖書の時代の王の平均寿命は44歳、庶民は30歳前後と考えられている。それに比べると現代は驚くほど長く生きるが、その人生は苦楽が交互に来る「想定外」続き。不運や不幸に会う方もいる。今日の箇所のコヘレトの言葉にその全てが書かれているといってもいいのではないか?キリスト者には「殺す」「憎む」「戦い」などは無縁と思われるかもしれないが、「想定外」に一歩踏み間違えれば過ちを犯してしまう弱さを抱えている。しかし神からすればすべては「想定内」、「定められた時」なのである。 コヘレトは旧約聖書の中では「箴言」などと同じ知恵文学に属する書物である。しかし他と決定的に違うのは「この世のすべてはあらかじめ運命によって定められており、決して変えることはできない」という考えに立っていることである。私たちが「何事にも時がある」ということを予め知っていれば、自分の人生に起こることは「神のみ心」であると信じることができる。イエス・キリストもそのことをよく理解していた。主イエスは宣教の第一声で「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と仰った。言い換えれば「いよいよ神の定められた時が来た」ということである。我々の人生はすべてのことが神の「時」の中で進められている。

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「神の心に響く人」ルカ18:9–14 中村吉基

今日の箇所は2人の祈りの譬えである。律法をよく学んで掟を確実に実行するファリサイ派と民衆から「罪人」と同様にさげすまれていた徴税人です。しかし模範的なファリサイ派の祈りはその高慢さと惨めさを包み隠さずに神にぶつけるような(カトリックの射祷を想起するような)徴税人の祈りは対照的です。 私達にはいつでも驕り高ぶる者になってしまう危険性がある。年に一度こうして宗教改革を記念して礼拝を捧げ、信仰を原点に戻そうという運動を思い起こしたい。1414年コンスタンツ公会議で火あぶりの刑に処されたヤン・フスは一般市民にも分かるような簡単なチェコ語の説教書を著わし、各人の心の正義を模索しより神に近い生活を送るべきだと言うのが彼の信条であった。処刑後崇敬の対象とならないようにライン川に灰は流されたが、現在のチェコの旗には彼の言葉「真実は勝つ」が記されている。今日の箇所の終わりには「だれでも高ぶるものは低くされ、へりくだる者は高められる」とある他者へのやさしさをより深く行うことのできるように神に力をいただき、そして神の心に響く者へと変えられていこう。

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「心が折れる?」ルカ18:1−8 中村吉基

いつからか使われ始めた「心が折れる」という言葉、「もうだめだ」という時に使わるようだが、人間の本当の底力は危機の時に発揮されるとも言われる。今日の箇所は唐突に「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」と始まる。その前はイエスの最期と再臨についての話であるからである。そして「気を落とさずに祈りなさい」とおっしゃり、裁判官とひっきりなしにやってくるやもめの譬えにになる。彼女は自分の訴えを裁判官に取り上げてもらおうと、諦めないで裁判官へ願い出ていた。そして人を「神を畏れず人とも思わない裁判官」はとうとうやもめの訴えを受け入れる。この譬えを通してイエスは弟子や私達に神に訴え、叫びを上げ続けるようにと促しておられる。神はいつでも祈りを聴いて下っていて実現するかは神だけが知っている。だから気を落とさず常に祈ることが求められている。往々にして「神は何もしてくださらない」と思える時があるが、気を落とさずに絶えず祈らなければならない、つまり「祈り続けながらも私たちは信頼して主の応えを待たなければならない。今日の最期にイエスは終わりの日に救い主が来られる時にいったいどれだけの人が信仰を持って祈り続けているだろうかを問う。心が折れてはならない、気を落とさず、決してあきらめない信仰が必要である。