創世記一覧

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「朽ちないもの」コリントI15:30-53 廣石望

キリスト教は復活のキリストを頭とする「死ねる者たち」と「生ける者たち」の両方から成る共同体である。「蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し」という対比で始まる今日の箇所は、キリストの運命こそがすべての人間の運命にとってモデルないし雛形というパウロの言葉である。近代以降の私たちに他者との命のつながり、ましてや失われた命との交流は可能だろうか?これに対してパウロがもっているイメージは「死者は復活して(/起こされて)朽ちない者とされ、私たちは変えられる」とあるように「変身」である。それ以降も読むと私たちと死者たちの交流が新しく回復されることが含まれる。神の裁きを介して新しく創られ解放される。「朽ちないもの」とは神による和解の達成、それを信じる私たちの死者たちへの連帯、またこの世で傷つけられている小さな命のための祈りである。

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「ことばで土の器に触れる神」コリントⅡ4:6-12 佐原光児

パウロはコリントにあてた手紙の中で人間に対して「土の器」と使っているが、これは旧約から続く、壊れやすさや弱さを象徴するものである。彼は生き方ゆえに裏切りや疑惑、投獄などを経験し心が折れている。しかし人は苦しみの中でこそ「キリストの福音と出会う」と考えた。私たちも経験する苦難は、不信心の罰などではないが、その中でこの脆い土の器と共に生きる神を知っていくのである。今日の箇所でパウロは、創世記から「光あれ」という言葉も使っている。神は打ちのめすような闇の中で、「光あれ」という言葉と共にわたしたちに触れ、共に生きていると分かるように語りかけて下さる。私たちもそうした言葉を、必要な人に運んでいく大切な役割を託されている。

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「心と思いを一つにして」使徒4:32-37 中村吉基

今日の箇所は教会初期の記録であるが、まだ教会ではなく「信じた人々の群れ」と書かれている。彼らはイエスキリストを信じ、無所有を是としていた。彼らには「大いなる力」(ダイナマイトの語源になったデュナミス)、つまり神の恵みがあった。それをもってキリストの復活を宣べ伝えていたのである。また使徒たちは人々から非常に好意を持たれていたとあるが、「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった」と結んで読んだ方がいいだろう。彼らは土地や家うぃ売って代金を持ち寄り共同体各々に分配された」という。カルト教団に似た例があるが、所有するとそういう危険を犯してしまう弱さもあると覚えておかねばならない。しかし当時の教会では申命記にある「貧しい者はいなくなる」という神の約束が実現されていた。「ささげない」と言われた時、不要な物や余裕のあるものから出していないだろうか?神は独り子主イエスを出された。最初のキリスト者たちは神の模範に倣って、神の愛を実現していた。自分の前にいる様々な困難にある人に自然に愛の行いをすることができた。私たちの教会もそれに倣っていきたい。

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「教会は〝ことば〟から始まった」使徒2:1-11 中村吉基

ペンテコステは、失望して閉じこもっていた人たちが、神の力を受けて外に出て行き、同じように悲しみや苦しみの人生を送ってきた人々に「神の偉大な業」を告げ知らせる者へと変えられていった出来事と読み取ることができる。教会の歴史の始まりである。教会は建物ではなく組織でもない。当初の教会はそれぞれの賜物を与えられた人をイエスが召し集め聖霊が接着剤の役目を果たしているのであろう。多様な言葉で話し始めたペンテコステは一致した教会の始まりには思えないかもしれないが、全て神のお創りになったものである。神はこの世界をおつくりになったのもことばによるものであった。今日の旧約はバベルの塔であるが、ここで通じなくなったものがペンテコステで再びつながったのである。この出来事が我々の教会でも実現しているのことである。我々がひとりひとり違っていることを喜び、それぞれが聖霊をお迎えして、この信仰の共同体を、聖霊の力によって前進させていただこう。

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「ラザロ、出てきなさい」ヨハネ11:28-44 中村吉基

先週引き続きラザロである。ラザロの死後到着したイエスに姉妹のマリアは「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」という。マルタと同じである。しかしイエスは「もし信じるなら。神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言い、天を仰ぎ「周りにいる群衆のため」と祈り、「ラザロよ、出てきなさい」と言われた。すると、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていたラザロがでてきたのである。現代の私たちにとって「巻かれている」(言語では繋ぐ、縛るのような意味もある)というのはとても厄介である。ガラテヤの信徒への手紙5章1節でパウロが書いているように「「自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由にしてくださった」のである。ラザロはキリストによって巻かれていたものを取り払われた。これと同じように私たちも今日イエスはが名前を呼んで下さり、「出てきなさい」と、闇の中から光のあるところへと引き戻してくださる。病の中でも、失望の中でも、キリストがあの重い十字架を背負い、今この時も共に苦しんでくださっている。しかしマルタとマリアのように「主がいて下さったら、こうならなかったのに・・・」と不満を持ってしまっていないだろうか。主は今日も光の中を歩んでほしいと強く願い、「出てきなさい」という呼んでくださっている。

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「虹と弓」寒河江健

聖書日課では本日の主日礼拝の主題は「保存の契約(ノア)」。ノアが箱舟の後祭壇を築き礼拝すると、神は彼の息子たちを祝福し保存の契約をたてて証拠とし、「雲の中にわたしの虹を置く」とされた。しかし虹というのは日本語訳であり、英語では単にザ ボウ(弓)と記されている。弓とは一般に戦闘に使われる。神さまの目に悪とされることばかり行ってきたために人間を動物もろとも滅ぼした、つまり神の弓がひかれたのである。素晴らしいのは、生き残ったのはノア一族とて普通の人間であり、神さまの前に正しい者ではない。しかしそれを赦し弓をひかないために神は雲の中に弓を置いた。イスラエルの民が住むパレスティナには河川氾濫を起こすような川はない。この話の成立はバビロン捕囚後と考えられている。約50年という長い年月を経て、神殿まで壊されて荒れ果てた故郷エルサレムに帰還した彼らの希望となる神の言葉が必要だったのであろう。普通の人間であるノア一族が繁栄したのは神さまの祝福あってこそ。長い捕囚の後エルサレムに帰還し、二度と高慢にならず謙遜に生きていこうというという思いで物語を紡いだのであろう。今日の新約の箇所「体のともし火は目である 」というイエスの言葉である。私たちの目は雲の中においた弓を見て私たちと交わした永遠の約束を見る。慈しみ深い神を見つめ、謙遜の思いを忘れないように主イエスの謙遜を衣として身にまとってこそイエス・キリストを全身に輝かせて辺りを明るく照らすことができるのであろう。

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「心が折れる?」ルカ18:1−8 中村吉基

いつからか使われ始めた「心が折れる」という言葉、「もうだめだ」という時に使わるようだが、人間の本当の底力は危機の時に発揮されるとも言われる。今日の箇所は唐突に「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」と始まる。その前はイエスの最期と再臨についての話であるからである。そして「気を落とさずに祈りなさい」とおっしゃり、裁判官とひっきりなしにやってくるやもめの譬えにになる。彼女は自分の訴えを裁判官に取り上げてもらおうと、諦めないで裁判官へ願い出ていた。そして人を「神を畏れず人とも思わない裁判官」はとうとうやもめの訴えを受け入れる。この譬えを通してイエスは弟子や私達に神に訴え、叫びを上げ続けるようにと促しておられる。神はいつでも祈りを聴いて下っていて実現するかは神だけが知っている。だから気を落とさず常に祈ることが求められている。往々にして「神は何もしてくださらない」と思える時があるが、気を落とさずに絶えず祈らなければならない、つまり「祈り続けながらも私たちは信頼して主の応えを待たなければならない。今日の最期にイエスは終わりの日に救い主が来られる時にいったいどれだけの人が信仰を持って祈り続けているだろうかを問う。心が折れてはならない、気を落とさず、決してあきらめない信仰が必要である。

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「備えあれば憂いなし」ルカ12:32-40中村吉基

当時の主イエスの一門は、吹けば飛ぶような小さなグループで社会の中での影響力はほとんどゼロに近かった。主イエスは弟子たちを励まして、そんな彼らに勇気を与えたのが今日の福音の言葉である。どんな状況に置かれても彼らを愛し、彼らのことを忘れない神がおられる。 弟子たちは自分の賜物、時間、力、思いを主イエスのためにささげた。「小さな群れよ、恐れるな」という福音のことばは、今の我々に語られている言葉である。忙しさにかまけて自分のことを優先してしまっていないか。しかし、力・時間・思いをささげて行動することで教会の足腰は鍛えられていく。 最後の晩餐の折に、主イエスは自ら弟子たちの足を洗い、新しい食事(聖餐)を制定された。これは、すべての人が招かれている救いの宴を先取りして祝われるものである。すべての人が神にあってその喜びに与る日まで今日も礼拝をささげている。普段の生活の中で、備えて生きるためであり、大きな希望を信じて生きるためである。

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「たった一つ、あったら良い」ルカ10:38~42中村吉基

今日はマルタとマリアの話である。教会生活が長いとどちらのタイプなどと話題になる。今日のマルタから省みなければならないのは、自分のしていることがうまくいかない時に他人にあたるような態度をにじみでてしまっているのではないか。また多くのことに思い悩んでしまっているのではないか。マリアが選んだ「良い方」とは「神の国をもとめること」である。つまり、主イエスが示してくださった愛が、自分の利益のためだけに使われることは本望ではありません。私たちは他者のために愛し、他者のために奉仕することである。しかし私たちは本当に弱さを抱えていますから、マルタのように忙しくなってしまったり、余裕がないときには、神のことをすっかり忘れてしまう。しかし忙しい中でその中で、どのように神を敬い、神との時間が取り「神の愛の伝達者」として私たちが行動する全てのところに主イエスのみ言葉の種まきが出来るようにしていきたい。

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「感動に突き動かされた教会」 使徒言行録2:1-12 中村吉基

ペンテコステの日に神が聖霊を通して何をなさったのか。 主イエスが復活された日の夕方、主の弟子たちに新しいいのちが授けられ50日もの間弟子たちの中にとどまった。しかし、この日はすぐさま弟子たちの内側から外側へと溢れ始めた。聖霊の力を「感」じて「動」きはじめたのである。普段使っていた言葉だけではなく、新しい言葉をもって神を賛美し始め、その様子は酔っているとあざける者もいたほどである。この出来事はいったい何を表しているのか。主イエスの死に失意の中にあった者たちが聖霊の力を受けて外に出て行き、同じように失意の人生を送ってきた人々に「神の偉大な業」を告げ知らせる者へと変えられた。それが教会の歴史が始まりなのである。