ミカ書7:14-20;使徒言行録24:10-21
使徒言行録の21章以下には、パウロが宣教活動のゆえにエルサレムで逮捕されて、ローマに護送される様子が記されます。今日の24章のところは、大祭司アナニアが、自分の側近――側近ということはアナニアにとって有利な証言をしてくれる長老たちと弁護士を伴ってカイサリアに到着しました。アナニアは最高法院の代表でありました。
パウロは、総督の合図とともに、丁寧な挨拶をしてから自分の弁明を始めました。11節にはこう記されます。
確かめていただけば分かることですが、私が礼拝のためエルサレムに上ってから、まだ十二日しかたっていません。神殿でも会堂でも町の中でも、この私がだれかと論争したり、群衆を扇動したりするのを、だれも見た者はおりません。そして彼らは、私を告発している件に関し、閣下に対して何の証拠も挙げることができません。
12日というのは、パウロがエルサレムに来てからカイサリアに護送されるまでの日々のことだと思われます。パウロがエルサレムでしていたことは、神を礼拝することだけで、何ら大きな問題はないと総督に言いました。
使徒言行録17章にはパウロがテサロニケで宣教していた時に、多くのギリシア人たちを信仰へと導くことができました。しかしそれを妬んだユダヤ人たちが、広場にたむろしていた、ならず者たちを抱き込んで暴動を起こし、町を混乱させ、信者の家を襲い、大騒動になってしまいました。しかしこの騒動の首謀者もユダヤ人たちであり、パウロではありませんでした。それゆえにパウロに関する証拠が出揃っているわけではありませんでした。
パウロによる弁明は続きます。14節以下です。
14しかしここで、はっきり申し上げます。私は、彼らが『分派』と呼んでいるこの道に従って、先祖の神を礼拝し、また、律法に則したことと預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じています。15更に、正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています。この希望は、この人たち自身も同じように抱いております。16こういうわけで私は、神に対しても人に対しても、責められることのない良心を絶えず保つように努めています。
パウロは「分派」これはユダヤ人たちが、イエスさまのグループをこう呼びました。「ナザレ人の分派」、それは異端でしかないと……。しかし、パウロはその不名誉な呼び方を「この道」と言い換えています。パウロは言います。この道に従って、神を礼拝し、「律法に則したことと預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じています」。
これはイエスさまの教えとユダヤ教とに従っていて、何ら神さまの御心に反するものではないということです。
そしてここからが大切な部分です。「正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています」。ちなみにここで「この人たち」と言われているのは大祭司アナニアや数名の長老たち、そしてテルティロという弁護人を指します。
帝政ローマ期の政治家であり、著述家でもあったヨセフスによれば、ファリサイ派の人たちは正しい者だけが復活すると信じていたようです。しかし、イエスさまはヨハネによる福音書5章28節以下でこう言っています。「驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ」。「墓の中にいる者は皆」ここではすべての人が復活することを約束してくださっています。
パウロは度胸が据わっている人でした。それはすべてキリストへの信仰ゆえだったでしょう。パウロの中に活ける神の子キリストがいつも、そしていつでもおられたのです!
「私は、神に対しても人に対しても、責められることのない良心を絶えず保つように努めています。」とキッパリと言いました。「責められることのない良心」は、「やましくない良心」(荒井献)、「いつも非難されることのない良心」(宮平望)などとも訳されている言葉です。
さて。この度パウロがエルサレムに来た理由は、「同胞に救援金を渡すため、また、供え物を献げるために、何年ぶりかで戻って来ました」と言います。エルサレム教会の信仰の仲間を支えるための献金を渡し、神殿においては他のユダヤ人たちと同じようにして供え物をしました。この神殿でパウロは清めの儀式を受け、供え物をして、騒動も起きることはありませんでした。
けれども「アジア州から来た数人のユダヤ人」はいたというのです(19節)。彼はエフェソなどに代表されるアジアで多くの信徒を獲得していましたので、アジアのユダヤ人たちにとってみればたまったものではありません。彼らは嫉妬からパウロを捕らえようとしました。パウロは彼らが直接総督に訴え出るべきだというのです。
終わりの20節のところから読みましょう。
さもなければ、ここにいる人たち自身が、最高法院に出頭していた私にどんな不正を見つけたか、今言うべきです。21 彼らの中に立って、『死者の復活のことで、私は今日あなたがたの前で裁判にかけられているのだ』と叫んだだけなのです。」
パウロは復活のキリストに出会って回心を遂げた人物です。いつも彼の中で復活のキリストが生きていたことは間違いありません。そして今日の箇所では、「正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています」と告白します。この言葉を聞く時に、イエスさまが、「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」(マタイ5:45)と言われたことを彷彿とさせます。
そしてパウロはこういう言葉も残しています。ローマの信徒への手紙10章9−13節(288ページ)
9口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。10実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。11聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。12ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。13「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。
パウロは復活のイエスさまと私たちが、神と私たちがしっかりとつながっているかどうか、ということをここで示しています。神を離れて自分勝手に歩く中にさまざまな問題は起きていないかと私たちに向かって問うのです。神とつながってはじめて救いはもたらされるからです。12節には「ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです」とあります。これは私たちにはだれにでも平等に愛と平和と救いをもたらす主がおられるのだと宣言しているのです。
私たちの教会ではここ10日ばかりの間にお2人の信仰の仲間を天に送りました。悲しみは尽きませんが、それでも神さまがイエスさまを死者の中から復活させたれたように、やがて私たちのからだも復活の栄光に与ることが出来るのです。頌栄の29番の歌詞には「天のみ民も、地にあるものも 父・子・聖霊なる神をたたえよ とこしえまでも」とあります。私たちは天にある方々と繋がっているのです! それを実現させてくださるのは復活のイエス・キリストに他なりません。私たちは、天にある方々とともに復活の主を仰いで、光の中を歩んでいきましょう。