創世記2:4b-7;ヨハネによる福音書11:28-44
先週から引き続きラザロの復活の物語に聴いています。11章から12章にかけてラザロのことが記されますが、指導者でもなく、イエスの弟子でもなく、「市井の人」であったラザロにこんなにも紙数が割かれるのは、新約聖書の中では彼だけだと言ってよいかもしれません。受難節にこの物語を読むことは、これから主イエスの受難を憶え、また復活を祝う私たちにラザロの復活の出来事が大きな意味を持つからなのです。
先週も申し上げましたが、私たちは亡くなったお墓に入ります(最近は散骨なんていう方法をとられる方々もいらっしゃいますが)。今は毎日自由な生活を送っていて、死んでしまったらあの狭いお墓の中で不自由な日々が待っていることに恐れを抱いています。でも私たちは口を開けば、毎日の生活の中で「疲れてしまった」とか「死んでしまいたい」とか、気持ちがどん底に落ち込んでいたり、先が見えなかったり、これはみんな「墓場」の状態だと申し上げました。主イエスはその墓場にいる私たちを白黒のような闇の中から、この神が造られた素晴らしい世界、それは色鮮やかで明るい光に満ちた場所へと引き戻してくださいます。皆さんの手を引っ張って、もうこれ以上悪い方向に行かないようにしっかりと私たちの腕を、身体をつかんでいてくださるのが、主イエスです。
先週の箇所11章25節からのところにこう記されてありました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」という主イエスの言葉です。主イエスこそ死を超えて、最初に甦られました。この主イエスを心から信じ、つながっている者は「死んでも生きる」と言うのです。「死んでも生きる」なんて不思議にまたおかしく聞こえるでしょうか。人間死んでしまえばおしまいではないか、と思われるでしょうか。主イエスが与えてくださるいのちは「永遠のいのち」です。今、死んでいる私たちを、墓場にいる私たちにいのちを吹き込んで、呼び戻してくださいます。私たちが主イエスの息吹でいきいきと生きられるようになるのです。
さて今日の箇所には、ラザロのもう一人の姉妹マリアが登場します。マリアは主イエス見るや否やこのように言いました。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(32節)。どこかで聞いたことのあるような言葉です。先週共に聴いた11章21節でマルタが主イエスに訴えた言葉と同じでした。マリアも、また一緒に付き添って来たユダヤ人たちも泣いていました。主イエスもまた涙を流されました。主イエスがお泣きになったというのは福音書に2か所にしか記されていないのです。
悲嘆に暮れている光景です。
33節と38節に「心に憤りを覚え」とありますが、それは私たち人間を取り巻く闇の力に対しての憤りといえます。死をもってすべては終わりだとする世の常識に対して、また神の力に対する人々の失望などさまざまなものが交錯しているかのようです。主は墓を塞いでいた石を取りのけるようにマルタに言われました。この時のマルタの言葉は印象的です。
「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」(39節)。
主イエスを気遣ってのことではないように私にはマルタの声が聞こえます。もう希望の火が消えかかっていた響きを持つ言葉として迫ってきます。「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」。皆さんも失望することがあるでしょう。希望が潰えてしまうような絶望的な思いに晒されることはきっとあることでしょう。それでも主は仰せになりました。「もし信じるなら。神の栄光が見られると、言っておいたではないか」(40節)。
前後しますが、先ほど32節でマリアが「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った言葉はマルタも21節で同じ言葉を言っていましたとお話ししました。しかしマリアとマルタの言葉は途中までは同じですが、マルタの言葉にはまだ続きがあります。それは、「しかし、神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、私は今でも承知しています」というものでした。マルタは主イエスのうちに何か人間の力を超えるようなものが存在しているのを感じ取っていました。けれどもそれがまだ何だかわからないもどかしい思いもありました。そのマルタのいるところで主は祈られたのです。
主イエスは天を仰いで祈ります。41節からのところです。
「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」
そして43節で「ラザロよ、出てきなさい」と言われました。主イエスの強い思いを感じさせる言葉です。福音書は「死んでいた人」と記しています。ラザロのことです。その死んでいた人が「手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。」とあります。
この「巻かれていた」という言葉。「巻く」(デオー)は「繋ぐ」「縛る」というような言葉の意味を持っています。私たちにとって「巻かれる」とか、「繋がれる」「縛られる」などということはとても厄介なことです。でもガラテヤの信徒への手紙5章1節でパウロはこう記しています。「自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由にしてくださった」と。ラザロはキリストによって巻かれていたものを取り払われました。自由になったからです。これと同じように主イエスは今日、皆さんの名を呼んで、「○○、出て来なさい」と言っておられます。たとえ今、私たちが真っ暗闇にいても、その闇の中から光のあるところへと引き戻してくださいます。
最初にも申しましたが、私たちが生きている毎日の生活には闇があり、嫌なことにぶつかり、へこんでしまうこともあります。いわば私たちはラザロのように包帯でぐるぐる巻きにされ、墓場のなかに閉じ込められおまけに大きな石でふたをされるように、さまざまなものに足をすくわれている私たちを自由にしてくださるのはキリストです。
今、病で苦しんでいる人も、大事な人を亡くした人も、仕事で嫌な問題にぶつかっている人もみんなキリストがあの重い十字架を背負い、今この時も共に苦しんでくださっています。「そこから出てきなさい」と無条件の深い愛をもって言っておられます。皆さんにその主イエスの声が届いているでしょうか。主イエスはいつも私たちに呼びかけておられます。それなのに私たちと言えば、マルタとマリアのように「主よ、もしここにいてくださいましたら・・・私はああでもこうでもなかったのに・・・」と不満ばかりをぶつけていないでしょうか。でもそれで終わりではないのです。私たちは死んだら、墓場に入ったらおしまいではない。そこから「出てきなさい」と主イエスは皆さんに今日も呼びかけておられます。それは主イエスが皆さんを愛しておられるからです。闇の中を歩むようなつまらない人生を送ってほしくないと願っておられるからです。主は今日も皆さん一人一人に光の中を歩んでほしいと強く願っておられるのです。