「いったい、これは……」使徒2:1-11 中村吉基

エゼキエル書37:1-14;使徒言行録2:1-11

皆さん、ペンテコステおめでとうございます。

一昨日の朝、教会員のお二人に伴っていただいて、H教会を訪問してきました。2月に私が説教奉仕に伺った教会です。教会の方々がチームを作って、素晴らしいガーデンを作っておられるので、それを見学させていただいたのです。何十種類の植物を育てておられます。いつの季節でも花が咲いているものに植え替えておられます。なんと年に2回土づくりからなさっているそうです。H教会は駅と山手通りを挟んで、活気のある商店街の中ほどにある教会です。教会の前はたくさんの人が通ります。美しい教会のガーデンに惹かれて求道をはじめて、洗礼を受けた方が何人もいらっしゃったとお聞きしました。教会の外の掲示板も一つだけではありません。通行される方が見やすいように、いくつも置かれています。カフェ看板というのでしょうか。背の低い板を合わせたような看板には、教会へ入ってきやすいように工夫された言葉が並んでいました。そこには日本語に並んで英語でも表記されていました。外国の方々からの問い合わせも多いのだそうです。

私たちの教会にもさまざまな母国語を持った方々が礼拝に集われることがあります。日本の教会だから日本語さえ通用すればよいというではなくて、私たちの国には、在日朝鮮人の方々が多くおられ、またアイヌ民族、沖縄の方々など固有の「ことば」を持っておられる方々もおられます。皆さんは地方に行った際に、地元の人々が話していることばを理解できなかったという経験はないでしょうか。そのようにさまざまな「ことば」を持った人々が日本ひいては世界中に息づいているのです。にもかかわらず相変わらずアジアの国々の人たちを排除するようなデモが行われています。そういう排他的な日本人に対して私たちは何ができるでしょうか。一人ひとりよく考えていただきたいと思います。そしてこの地に建てられた教会として何ができるのでしょうか。教会に来られるのは外国の方々ばかりではありません。子どもたちも来ます。その中には言語を理解しえない嬰児もいるでしょう。また、目の見えない人、耳の聴こえない人、ことばを話すことの出来ない人もおられます。しかし、この方々もそれぞれがそれぞれの方法で、「ことば」を持ち、その「ことば」に生きている人たちです。

私たちが外国に行く時、ことばの壁を感じます。外国に行かなくても、若者のことば、年配の方々の言うことばが判らないことがあります。私たちは自分たちに親しみのないものに触れたときに、「引いて」しまうことがあります。違和感を覚えると言うか、寂しい感じがしたり、時には不快感までもよおすことがあります。それでは「ことば」とはいったい何なのでしょうか。一言で言えば、その人の歴史、価値観、考え方がそこに表れています。もう少し簡単に言えばその人自身が「背負ってきたもの」が「ことば」になっています。その「個」が国単位、民族単位となっていった歴史があります。私たちが知らない、聴いたことのない「ことば」に出会うというのは異質なものと出合っているのです。そしてその時の戸惑いはことばの意味が判らないからというものではなく、異質なものへ触れることの恐怖とか不安なのではないでしょうか。

今日私たちはペンテコステを祝っています。先ほど、聖霊降臨の出来事を描いた使徒言行録2章の記事に共に聴きました。さまざまな「ことば」――それは人々の価値観、大切にしているもの、考え方などの異なる世界に2000年前にまず、イエス・キリストがお生まれになりました。主イエスは小さな村にお生まれになり、豊かな家の子どもでもなく、一冊の本を書いたわけでもなく、定職に就いていたわけでもなく、高等教育を受けたわけでもありませんでした。十字架に架かられるまで田舎のガリラヤ地方を出たこともなかった。何か賞をもらったり、取ったりしたこともなく、この世の業績になるようなことは何もされませんでした。しかし、しかしです・・・・・・。

主イエスの「ことば」を聞きさえすれば、誰もが「ああ、神ってこういうお方なんだ」ということが判るようにしてくださいました。そして主イエスが指し示された神は私たちのことを愛しておられる。どんな価値観や考え方を持っていてもいい、誰もがもれなく神に愛されている存在なのだ、ということを主イエスは「ことば」を通して教えてくださいました。言うなれば主イエスは人間の「共通語」としてこの世に来てくださいました。そして主イエスの「ことば」の伝え方は、ただただ難しい単語を並べ立てて、長々とレクチャーするのではないのです。それを聴いている人々もありがたいお言葉を(意味が判っても、判らなくても)聞き流しているのでもない、主イエスは人々と同じ目線に立って「ことば」を語られました。それだけではなく、主イエスの行動や生きざまからさまざまな「ことば」が伝えられたのです。

そして主イエスがかねてからされていたお約束のとおりに、五旬祭の日に、神によって聖霊が送られました。聖霊が降った時、何が起きたでしょうか。

4節をごらんください。「“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」。そうです。聖霊によって異なった「ことば」に生きていた人たちが、理解し合って生きる道が開かれたのです。それはただ単に自分にも理解できる「ことば」が聞こえたというのとは違うのです。今まで自分の触れたことがない、価値観や考え方、相手の背負ってきたものを理解し合えるようになったということに他なりません。

主イエスにすべてを賭けて従ってきた弟子たちでしたが、主イエスは復活させられて40日後に天に上げられました。弟子たちの心は寂しく、またこれからどうしたらよいのだろうと不安でいっぱいでした。しかし、主イエスはご自分に代わって聖霊が与えられることを約束してくださいました。そして主イエスのことを想い起こしながら弟子たちが集まっていたその時、不思議な「激しい風」が吹いてきたのです。そう、神は自分たちをお見捨てにはならなかった、聖霊が降って彼らをいつも支えようとされる神の愛を深く味わった弟子たちでした。私はこの風はすべての壁、すべての抑圧的な人間の力、そしてすべての一人ひとりに履かされた足枷を壊す風ではなかったかと信じます。弟子たちを新しいステージへと押し出す風、それが聖霊降臨の出来事でした。

5節にはこうあります。

さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。

当時のエルサレムにはさまざまな地中海沿岸の地域で育ったユダヤ人たちが集まっていましたから、それぞれの故郷の「ことば」を持っていました。主イエスの弟子たちはみなガリラヤの人で主イエスと同じアラム語を話していましたので、彼らが突然さまざまな「ことば」で話し始めたことを大きな驚きで見ていました。聖霊が降るところには、さまざまな「ことば」(価値観や考え方も含む「ことば」)の壁を打ち壊して、理解し合う道が備えられているのです。そして互いに違っていることを否定したり、征服したりするのではなく共存する道を切り拓いてくださったのが聖霊降臨の出来事でした。

けれども聖霊が降って一瞬のうちに何もかもが変化したわけではないのです。弟子たちが他の「ことば」で話していたのもほんの短い時間だったでしょう。しかし、その時神は聖霊を通して何を私たち人間に見せてくださったのかといえば、それは不可能なことでも可能になるということ、人々が共に手を取り合って共存する道が確かにあるということを現実のものとし、そしてこの聖霊降臨によって示された現実の中を歩いて行きなさい、と神は聖霊を送って今日も私たちの背中を押してくださるのです。

SEKAI NO OWARIという音楽グループをご存知でしょうか。若い方々を中心に支持されている人たちです。SEKAI NO OWARIが歌の中に「プレゼント」という楽曲があります。その歌詞は、このような一節で始まります。

「知らない」という言葉の意味
間違えていたんだ
知らない人のこといつの間にか「嫌い」と言っていたよ
何も知らずに
知ろうともしなかった人のこと
どうして「嫌い」なんて言ったのだろう
(作詞 Saori)

自分が知らないだけのことに、嫌悪感を持っていたかもしれません。それが憎悪に変わっていくことも容易にあります。私たちには未知のものに「壁」を作ってしまう習性があります。ペンテコステの出来事は知らないことだらけでした。想定できない事態でした。見たこともないような姿で聖霊はやってきました。数日前東京にも思いがけない強風が吹いていました。皆さんのところにも激しい風の音が聞こえたことと思います。ペンテコステの日もそうでした。「家中に響」くような大きな音(2)、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ」ました。そして弟子たちは「聖霊に満たされ、〝霊〟が語らせるまま、ほかの国々の言葉で話し出し」ました(3)。これは全て未知のことでした。拒否してもいいくらいの出来事でした。しかし彼らはそれを受け入れたというより、彼らも彼らの周囲にいた人たちも「あっけにとられてしまった」(6)のでしょう。「驚き、怪しんだ」のです(7)。そして12節をご覧ください。「人々は皆驚き、とまどい、『いったい、これはどういうことなのか』と互いに言った」とあります。そのようなことに有無を言わさず圧倒的な聖霊の働きがあったのでしょう。でも弟子たちはその未知の出来事を無視しなかったのです。拒否しなかったのです! これで宣教の働きを進めることができたのです。

今日ペンテコステを祝い、私たちはまた新たな日々を歩んでいきます。私たちの生活の場で、「ことば」の異なる人たちに出会うことでしょう。しかし、それを避けて通るのではなく、その人たちと真正面から向き合うことで、疲れたり、ストレスを感じたり、苛立ちを憶えることもあるでしょう。主イエスは異なる「ことば」を持つ人の話に耳を傾け、理解されました。私たちは主イエスのようにうまく「ことば」を話したり、十分に「ことば」を聞き取れないかもしれません。しかしそれでいいのです。普段使っていることばで、相手に誠実に向き合うことで美しい「ことば」が紡ぎ出されていくのです。お互いに話したいとこと、伝えたいことが通じ合っていくようになるでしょう。神の「ことば」それは「愛のことば」です。何か言葉がけをするのではなくて、相手のことばに「聴く」ことが愛そのものです。誰かの言葉を引き出してあげるのを助けることばが「愛」なのです。その神の愛は「突然」やってきたと今日の箇所は告げています。これは神の愛は時と場合を選ばないということです。私たちとほかの誰かが向き合うところにこそ神の愛は実現し、聖霊の力は働かれるのです。