同行二人(どうぎょうににん)ヨハネ1:29-34 中村吉基

イザヤ書42:1-9;ヨハネによる福音書1:29-34

今日の箇所は洗礼者ヨハネが自分の弟子たちに、イエスがどのようなお方であるのか、ということを証ししているところです。いよいよここで主が登場されます。冒頭の29節でヨハネは主イエスが「世の罪を取り除く神の小羊だ」と言っています。これを聞いたヨハネの弟子たちは驚いたことでしょう。主イエスはまだこの時、神の国の教えも説かれていませんでした。今日の箇所に主イエスの言葉は一言も記されていないのです。ましてや奇跡を行うこともありませんでした。ナザレに住むごくごく普通の男が、「世の罪を取り除く神の小羊」とは到底信じがたいことでした。しかしヨハネの言葉は重々しく、威厳のあるものでした。弟子たちの目から見れば普通の庶民の暮らしをしていた主イエスが「神の小羊」だとヨハネに宣言されるのには、ヨハネには主イエスに委ねられた神の深い御心を感じ取っていたとしか言いようがありません。

主イエスのお生まれになった時代から現代に至るまで、人間はたとえばよい家柄に生まれたとか、能力が高いとか、裕福だとか、よい会社に勤めているとか、目先に見えるものばかりに注意を払わされて来ました。神の目から見れば、すべての人が、かけがえのない存在で、一人ひとりのうちにいのちを創造され、神は私たちのいのち、すなわち私たちの内側で働いてくださっています。これは誰もが平等にそうされています。私たちにとって大切なのは、目先のことではありません。神は私にどんな使命を与えているがゆえに、自分を生かしてくださっているのか、ということに気がつくことです。

この世的には、家畜小屋に生まれ、十字架で殺された主イエスはむなしく、無意味なものに思われるかもしれません。けれどもそういう主イエスだからこそ、価値のないように見えるものに価値を見出し、仲間外れにされ、いじめられ、爪はじきにされているような人の涙をぬぐい、その悲しみを共に生きてくださったのです。貧しさを経験した人でなければ、貧しい人の本当の気持ちは分かりません。いじめられた経験のない人は、その人の本当の苦しみを知らないでしょう。病気を経験していない人は、自分のいのちがいつ終わりを迎えるのか、怖れる気持ちを味わったことがないはずです。しかし、主イエスは私たちの酸いも甘いも、すべてご存知です。主イエスはその後ガリラヤで多くの病気に苦しむ人を癒し、悪霊に取りつかれている人を解き放ちました。そして主イエスは生涯を通じて貧しい人びと、差別された人びと、病気の人びとの「友」となられました。

「世の罪」と聞くと私たちは、何か法をおかして悪いことをしてしまった人の罪が主イエスによって赦されるような限定的な見方をしてしまいがちですが、当時はこのような人たちがいわば「罪人」よばわりされていました。たとえば「重い皮膚病」の人々が負わされていた苦しみは、レビ記の規定を読むと分かります。「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、『わたしは汚(けが)れた者です。汚れた者です』と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない」(レビ13:45-46)。

「伝染病」という考えはなくても、「汚(けが)れがうつる」という考えはありました。「汚れている」とは「聖なる神」と正反対の位置にいて神からもっとも遠い人間だとされていました。また、この病は「神に撃たれたもの」とも考えられました。「宿営の外」は共同体から追放されることを意味しています。神との関係も人間社会との関係も完全に絶たれてしまうのです。肉体的な苦しみだけでなく、大きな苦しみがその人を襲っていたことになります。このような苦しみを理解せずに、ただただ「世の罪」ということを簡単に理解してはいけないでしょう。ヨハネ福音書を記した人たちは、人間社会からから抹殺されていた人びとが主イエスによって再び活き活きと生活を取り戻し、いのちと生きる力を回復させていったことを指して、洗礼者ヨハネの言葉を通して、主イエスが「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と表現したのです。

テレビの番組で日本に生きるさまざまな外国人の人たちの暮らしぶりを観ました。何人かの外国人が集まっているところで、欧米の国々のほとんどで、食前に日本語で言う「いただきます」というような言葉はあるけれども(食前の感謝の祈りなどがこれに当たるでしょう)、食後に「ごちそうさまでした」という言葉を言う習慣がない、と言ったことに驚いてしまいました。そういう意味では私たちの日本では食に対して(いのちをいただくことに対して)、感謝に始まって感謝に終わるということは美しいことだと思わずにはおれませんでした。私たちがいただくものはすべて動物や植物のいのちを犠牲にして、私たちの食となり、いのちが繋がれています。そのことを当たり前のように思って、私たちはあまり感謝を憶えていないかもしれません。けれども何かの犠牲の上に私たちの日毎の糧は成り立っています(ちなみに「ご馳走さま」というのは、その食事を作るために食材を集め、走り回ってくれた方への感謝がこめられているとする説があります)。今日この礼拝でも聖餐を祝います。聖餐を通して私たちは主イエスのいのちをいただいているのです。聖餐の元々の言葉は、ユーカリストといいますが、これは「感謝と喜びの食卓」という意味です。私たちにまことの神を教え、どうしようにもないこの自分を神の救いに導いてくださった主イエスのいのちをいただいています。私たちの内側に主イエスのいのちが生きているのです。今日この礼拝でこのことに感謝をしたいと思います。四国八十八箇所の霊場巡りをするお遍路さんのかぶっている笠には「同行二人(どうぎょうににん)」という言葉が書かれています。これは巡礼の間、たとえ一人で巡礼していても弘法大師が一緒に巡礼をしてくれているという意味です。私たちの人生は主イエスが「同行二人」で一緒に歩んでくださっています。そのことに私たちは絶えず感謝を憶えるものでありたいと願います。今、私たちの中に主イエスの血が流れ、主イエスの息吹を感じ、主イエスのいのちが鼓動しているのです。

その主イエスのいのちをいただいている私たちです。私たちが集っている教会が、どうして現代において、この「世」の人びとの希望となり光となっていないのでしょうか。教会は絶えず主イエスのいのちに生かされ、主イエスを証ししているはずです。洗礼者ヨハネは一目主イエスを見た時に、「見よ!」と熱を込めて話しました。それは時を経た2000年後の私たちにも伝わってくるものです。しかし私たちには熱もかけらも見えないどころか、ろうそくの燃えかすのようになっていないでしょうか。それはこの「世」が悪いのか。はたまた私たちに原因があるのでしょうか。しかし私たちはへりくだって私たち自身を糾明したいと願います。

日本にキリスト者が増えないのは、せっかく教会に来る方が多くても、そこに生きる人が生き生きとしていなかったり、ひどい時には仲間たちを批判していたり、教会の中にいる人が自分のイメージとかけ離れているという印象が持つことが多いのではないかと分析している人がいました。これには異論がおありの方もあるでしょう。しかし、主イエスをいただいて主イエスと一緒に生きている私たちが口先だけの信仰に終わっていたり、建前だけを言って、中身が伴ってなかったりすれば、むしろ皆さん一人ひとりの中に生きている主イエスのいのちの火を消してしまうことになるのです。

最後の34節のところで洗礼者ヨハネは、

わたしはそれを見た。だからこの方こそ神の子であると証ししたのである。

この「見た」「証しした」という言葉は、強烈な印象をもってヨハネの脳裏に焼きついている出来事でした。だからイエスは神の子だと「証しし続けてきた」のだというのです。この時代、証言するには2人以上の証人が必要でした。ヨハネは32節にもあるように、霊が天から鳩のように降って、主の頭上にとどまるのを「この私も見た」(宮平訳)。他の人たちと共に「私も見た」と強く証言したのです。

本当に主イエスの愛、主イエスのいのちにつながっていくことによって、ヨハネのように「わたしはそれを見た」と真実の言葉を語ることが出来るのです。今日、今年最初の礼拝を捧げています。今朝ここから私たちは信仰と思いとことばと行いを新たにしたいと思うのです。