ヨハネの手紙Ⅰ4:9-18;ルカによる福音書2:1-16
皆さん、クリスマスおめでとうございます。今日初めて私たちの教会に来てくださったかたがたを「ようこそ、ホンモノのクリスマスへ!」と歓迎します。Christmasという言葉をご存知でも、Christmasという言葉の意味をご存知のかたはこの日本には多くはおられません。それはキリスト+礼拝(The Mass of Christ)という言葉が合わさったものです。つまり「キリスト礼拝」。教会はいつでもキリストを礼拝していますけれども、このクリスマスの夜の礼拝そのものが「Christmas」なのです。ですからホンモノのクリスマスにようこそ! と申し上げたのです。今夜私たちはキリストを拝み、ご一緒にホンモノのクリスマスの体験をしたいと願っています。
主イエスが2000年前にお生まれになったイスラエル・パレスティナでは激しい争いが起きました。「神よ、いつまでですか」と問いたい思いです。私たちが祈っても、祈っても壁は厚く、平和の道は遠いようにも感じられます。私は2007年にベツレヘムを訪れました。首都エルサレムからほど近いところです。しかしエルサレムからパレスティナ自治区にあるベツレヘムに行こうとするには、イスラエルが設置した防護壁を越えていかなければなりません。防護壁のところには銃を持ったイスラエル軍の若い女性兵士が立っておりました。ただ突っ立っているだけではありません。そこを行き来するアラブ人や観光客の私たちを厳しく見張っているのです。イスラエルに住む日本人が言いました。「この防護壁のおかげでどれだけの子どもたちを始め、人びとのいのちが助けられたことか」と主張しましたが、私にはそうは思えませんでした。なぜならパレスティナの人たちを壁で囲い込んでいるように見えたからです。しかしどうして人は境界線を造るのが好きなのでしょうか。
カトリック教会に行きますとクリスマスを待ち望む待降節(たいこうせつ/アドヴェント)の時期には馬小屋の飾り(プレゼピオ)を礼拝堂に飾ります。信者の家にも小さなものを飾ります。この飾りでは飼い葉桶の中に幼子主イエスの人形を寝かせることになっているのですが、しかし待降節の時期には主イエスの人形はそこにはありません。クリスマスイブの晩のミサの時になって初めてそこに主イエスの人形が飾られます。ミサの初めの聖歌を歌っている時に、司祭がそこに主イエスを寝かせるということが行われますが、このようにして主イエスを私たちのうちにお迎えしなければならないのです。しかし、クリスマスの舞台、パレスティナのベツレヘムのルター派の教会ではイスラエルによって破壊されて出た、がれきに主イエスの人形が寝かされているという飾りが置かれているのだそうです。12月10日の「朝日新聞」には今、ご覧いただいている画像が掲載されておりました。
(画像)朝日新聞デジタル
https://www.asahi.com/articles/photo/AS20231219000274.html
さて、先ほどご一緒に聴きましたヨハネの第1の手紙4章9節には「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました」と力強く宣言されています。この手紙が書かれた時代、すでに「イエスはいない」「キリストなどいなかった」と主張していたグループがありました。このグループの特徴は神が私たちの世界に介入されて、その愛のしるしとして主イエスをお送りくださったことに、真っ向から否定するものでした。イエスは人としてこの地上に来られなかった、霊的な仮の姿で現れたと主張したのです。ですから福音書に記録されている主イエスの物語はすべて作り話だという有り様でした。そうなればもちろん十字架や復活も歴史的な出来事ではないとなるわけです。
ヨハネの手紙は、そのような「反キリスト」ともいうべきグループの存在を意識して記された手紙です。この第1の手紙の1章1節は今日の箇所ではありませんが、このように記されています(前に映し出します)。
初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。
すなわち、命の言について。
ヨハネは主イエスの声を聴いていました。目で見てもいました。手で触ったこと、ここには「よく見て」という言葉が記されてあります。ただ見ただけではない、凝視したのです。じっと見たのです。ヨハネはこの世界に神の子イエスが確かに「人間」として来てくださったことを高らかに宣言するのです。
15節にはこう記されています。
イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、
その人も神の内にとどまります。
私たちがイエスをお迎えするということの意味が記されています。ヨハネは言います。「イエスを神の子であると言い表す人は、神がその人のうちにとどまってくださる」からです。
続く16節にはこう記されています。
わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。
信仰は目に見えないものだと申し上げました。しかしヨハネは耳で聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えると記しています。もし私たちがここに証言されているように「神は愛です」ということが実現しているならば、私たちは毎日神に愛されている実感を持って過ごしているはずなのです。「愛にとどまる人」は「神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださ」ることを本当に信じていたら、隣人を愛する、他者を愛する私たちがいるはずです。このように私たちの信仰の中に神の愛が実を結んでいるかどうか、今夜神は皆さんお一人お一人に問うておられるのです。
神の愛の実現として私たちの世界に主イエスが来られました。私は先ほど、「なぜ人は境界線を作るのが好きなのだろうか」と申しましたが、主イエスこそこの人間が作る境界線を壊すことをなさいました。すなわち神の愛は人間が作る境界線を壊していくのです。主イエスが徴税人や、売春婦や、「罪人」と呼ばれる人びとと共に食事をしました。言うならば同じ釜の飯を食べました。重い皮膚病を患っている人、長血の女性、「不浄」だとされている人に、主イエスの側から触れてくださいました。サマリア人をはじめ社会から「のけ者」にされた人びとと言葉を交わしました。これはすべて神が人間の作った愚かな境界線を打ち壊したことにほかなりません。性別を問わず、地方の人と都会の人、病の人も健康な人も、貧しい人も豊かな人も、神は主イエスというご自身の愛の分身を用いて、ことごとく人間社会の醜い境界線を壊していったのです。かつてこんなことはありませんでした。神の愛というのは、私たちが見たこともない、聞いたこともない、触れたこともない圧倒的な大きな力を持った、経験したことないものなのです。
南アフリカ共和国の元大統領だったネルソン・マンデラさん(1918-2013)のことを皆さんご記憶されていると思います。この話はマンデラさんが亡くなられた10年くらい前にですが、私が尊敬する老牧師O先生が教えてくださいました。
マンデラさんがアパルトヘイト(人種隔離政策)に反対し、逮捕されて、46歳のときから27年間投獄されていたのはご存知のことでしょう。しかしあまり知られていない(日本で報道されていない)のは、マンデラさんが少年期にメソジストの教会に通い、牢獄に入れられた後も聖書を繰り返し読んで、人に怒ること、憎しみを持つことの代わりに「感謝すること」を選んだということです。朝起きて天を見て感謝、地上を見て神がお作りになった世界に感謝、水を飲んで感謝、食事が与えられて感謝、強制労働でむち打たれるのも感謝だと思えるようになりました。終身刑だったはずのマンデラさんが70代で釈放された時、彼は「感謝することが自身の健康につながった」と言ったそうですが、大統領に就任して、アパルトヘイト時代に「白人」が、南アフリカの人たちにした数えきれないほどの悲惨な事柄が明らかになってきました。しかし、正直に話して、罪を認めれば、「赦しを与える」という世界に類を見ない「聴聞会」が始まりました。これには反対論がなかったわけではありませんでしたが、マンデラさんは南アフリカが今必要としているのは「正義よりも癒し」だと主張してそれを成し遂げました。あるとき白人の警察官が連れてこられました。証言に立ったのは南アフリカの年老いた女性、この警察官は女性の18歳だった息子を捕まえて銃で殺しました。それだけではなく、証拠隠滅のためにこの少年を火で燃やしました。それから8年後に女性の夫をこの警察官は捕らえて、多くの薪にガソリンを掛けて焼き殺しました。その光景を妻であるこの女性をそこへ強制的に連れてきて、火だるまになっている夫を見せました。証拠を隠滅するために骨が残らないほどにまで焼き尽くしました。
その警察官が今、聴聞会に立たされています。判事は女性に尋ねました。
判事「奥さん、今この警察官に言いたいことはありますか?」
老女「はい、ひとつお願いがあります。うちの夫が燃やされたあの場所に行って灰を少し持ってきてください。私は夫の埋葬が出来ておりませんのでそのためです」
判事「他に何かありますか?」
老女「私は月に2回、ゲットーにある我が家に来て1日を共にしてほしい。なぜなら私がこの警察官を愛していることと、彼のお母さんのようになって接したいからです。主人も息子も殺されて、私はすべてを失いましたが、でも私には『まだ愛がたくさん残っています』」と。
老女はこう続けました。
「私は彼を愛していて、神も赦してくださること、そして私はすでに彼を赦しています。その証拠に今ここで彼をハグしてもいいですか?」
そう言って老女が警察官に近寄ろうとすると、誰からともなく、「アメイジング・グレース」(驚くばかりの恵み!)を歌いだしました。
老女も警察官も感極まってお互いを抱きしめていたのだそうです。
2000年前にお生まれになった神の愛のお姿であるイエス・キリスト。先ほどベツレヘムの教会に飾られている赤ん坊のイエスの人形がありました。もう一度その画像を見てみましょう。がれきに埋もれている赤ん坊です。しかし、そこには光が灯されていることにお気づきでしょうか。これは神の光、希望の光です。私たちは希望を失うことはありません。聖書には「希望が失望に終わることはありません」(ローマ5:5、聖書協会共同訳)とあります。このイエス・キリストを自分の中に宿すと誰でも奇跡的に変わるのです。神の愛が私たちのうちにとどまってくださるのです。この愛をいただきましょう。
そして今日のヨハネの手紙はこのように締めくくります。
愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。
私たちの毎日は恐れることばかりです。恐れなしに過ごすことなんてできないような日々です。しかし聖書は言います。神の愛には恐れがないと。
クリスマスとはこの神の愛が生まれた日なのです。
(しばらく沈黙のうちにそれぞれでお祈りしましょう)
(祝福)
平和のうちに行きましょう。
御子を顕された神が、あなたがたを守ってくださいますように。
ご自身のもとへ招いてくださったキリストがあなたがたを、愛を行う者へと変えてくださいますように。
いつどこでも働かれる聖霊があなたがたを安心に満ちた場所へと導いてくださいますように。
今も、いつもとこしえに アーメン。