ヨブ記33:1-7;使徒言行録10:44-48
この日曜日の夜にNHK大河ドラマを楽しみにしておられる方もおそらくこの中にもおられるのではないかと思います。ちょうど10年前になるのだそうですが、『八重の桜』というドラマが放映されていました。このドラマでは明治10年代の京都の同志社の様子を見ることができました。明治政府は富国強兵を国の大方針と定め、徴兵令を施行し、それを次々に改正することによって、効果的に日本の軍隊組織を強化していきました。官公立の学校に在学する者に対しては、徴兵延期の措置が講ぜられましたが、同志社のような私立学校にはその特典が与えられませんでした。明治政府は私学に対してそのような圧力をかけました。当然、同志社の在学生たちの間に大きな動揺が起こりました。転校や退学する者が相次ぎました。
そのようなことが同志社で起こっていた矢先にもう一つ大きなことが起こっていました。その少し前の横浜での出来事からお話しします。
1883年(明治16年)、横浜海岸教会の初週祈祷会でJ・H・バラ宣教師が自分の見た夢を告白した。その夢とは、「羊の危機にもかかわらず眠れる牧者」の夢でありました。バラは伝道者としての責任感に打たれて、自分の悔い改めを告白した。これをきっかけに、初週祈祷会のために集まった数人の船員の信徒が、リバイバル(信仰覚醒)、聖霊に満たされることを経験しました。そしてその波は彼らを通して、横浜の諸教会やミッションスクールに広がっていきました。リバイバルの火が横浜から東京の諸教会、青山学院に、そして地方に広がっていったのです。そのリバイバルの火が京都にも伝わってきました。翌年、同志社においても聖霊の満たしがあり、200人が一挙に洗礼を受けたと言う記録が残されています。
霊南坂教会の初代牧師で、新島襄の後継者として同志社の第2代目の社長になった小崎弘道先生がこのように書き残しています。
「(1884年の)1月の初週祈祷会を出発点として、同校の内外に盛んな祈祷会が開かれ、それが3月17日に至って大リバイバルとなり、夜を徹して熱烈な祈祷会が続き感動の果てに理性を失う者が出たほどであった。そしてこのリバイバルは全同志社の学生から京都諸教会を揺り動かし、西は大阪、神戸から四国へと、東は東京、群馬、東北へと波及し、みな聖霊に満たされ、教会に集まり、信徒の交わりをなし、ともに祈り、神を賛美し、そして主は救われる者を日々仲間に加えてくださったのである」。
しかし、大事なことはたくさんの人が洗礼を受けたとか、たくさんの人が集会に集められたということではありません。それは感謝すべき出来事かもしれませんが、祈りの実、聖霊の実としてあくまでも「結果として」与えられたことでした。いちばん大切なことは神が、主イエスが、この自分と歩んでくださる事実。つまり、救いの道を私たちが歩むかどうか、ということです。もう少し同志社の記録を辿ってみると、池袋清風という学生の日記に詳細が綴られています。
池袋はある日曜日の午後、あまりの寒さに足が冷えるのを怖れて礼拝堂に入りました。そこに二年生で、鹿児島出身の山路一三という生徒が一人いて、池袋を見ると興奮しながら、十字架の愛を悟ったことを語った。池袋はまだ十字架の愛を味わうことができませんでしたが、ともかく2人で第2教会(今の同志社教会、平安教会の前身)の礼拝に出席しました。教会からの帰り、池袋は神学生の竹原義久と一緒になりましたが、竹原もまた十字架の愛を感じたと言うのです。竹原のところにその朝、五年生の新原俊秀がやってきたので、信仰の話をしたところ、新原は突如として悟ることができて、大いに喜んだというのです。しかし池袋は、自分はこれでもう何年も熱心に聖書を研究してきたのに、まだその域に達していないと、大いに自分のことを嘆いています。池袋は来る日も来る日もどうか十字架の愛を悟り、敵を愛することのできる信仰を与えて下さい、と真剣に祈りました。翌朝池袋は夢を見ます。夢の中に故郷都城の父が現れ、にこにこして京都の市街を見渡しながら、「お前はこの京都で長らく伝道したらよい、私はいつでもお前と一緒にいるから」と告げたところで目覚めました。池袋は神に感謝し、ぜひとも神のために生涯尽力したいと考えます。そして池袋にも遂にその日がきました。3月17日の日記にその状況が克明に記録されています。池袋はある経験を思い出しました。鹿児島の若い武士たちが政治的な争いに巻きこまれ、兄弟のうち弟の方がそれに連座して座敷牢に入れられました。彼には切腹の命令が下りました。彼の兄が座敷牢の番をしていたのですが、弟を憐れみ、密かに弟を福岡へと逃がしてやりました。この兄は不行き届きを上司から責められて、切腹したのでした。このような実例がキリストと父なる神の関係を深く理解するのに役立ちました。池袋はキリスト者と言いながらも、いかに自己中心的な生き方をしてきたかを思いました。キリストは父母よりも、自分自身よりもこの私(キリスト)を愛さないものは天国に入る事はできない、と言われたことを思い出しました。まさしく自分は偽キリスト者だった。このことを悟り、自分の罪を赦していただけるようにと、池袋は泣いて祈りました。すると急に心が晴れ渡り、重荷は肩から落ち、喜びに満たされたという証しが残されています。
今日の箇所は先週に引き続きまして、コルネリオという異邦人の家に招かれて福音を伝えたペトロのことが記されています。最初に「ペトロがこれらのことをなおも話し続けていると」とあります。43節以前に記されていますが、ペトロは一生懸命に福音について語りました。そうするとコルネリウスや家族、そこに集まっていた人びとに「聖霊が降った」とあります。違う翻訳(荒井訳)によれば「御言葉を聞いたすべての人々の上に聖霊が降った」となっています。そこには子どももおとなも、女性も男性もさまざまな性指向を持った人びとも、貧しい人も裕福な人も、異邦人もユダヤ人も、等しく聖霊を受けたのです。しかしまたもや驚いてしまったのはユダヤ人のほうです45節に「割礼を受けている信者(ユダヤ人)で、ペトロと一緒に来た人は皆、聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれるのを見て、大いに驚いた」。大いにたまげた、のですね。なぜたまげたか? それはユダヤ人以外に聖霊が降ることはない(=救われない)と思っていたからです。異邦人は「異言を話し、また神を賛美していた」(46)。しかし、この出来事を通してペトロは神のみ心を悟ったのです。使徒ペトロといえども、異邦人と交わったりすることは躊躇するようなことでしたが、47節で、ペトロはユダヤ人たちに向かって、「わたしたちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受けるのを、いったいだれが妨げることができますか」と言ったのです。ここでやはりペトロは先入観とか自分自身で作っていた「律法」を捨てるという劇的な内面の変化を経験しています。これは聖霊がもたらしてくださった業です。
さて、今日の箇所でもまたペンテコステの出来事が再現されるかのようにコルネリウスの家に集っていた人びとに聖霊が与えられました。「聖霊を受ける」というのは、2000年前の教会の“専売特許”で現代の教会に生きる私たちには与えられないのでしょうか。同じ使徒言行録19章の最初にエフェソに行ったパウロがそこで出会ったクリスチャンたちに「信仰に入った時、聖霊を受けましたか」と尋ねられた。しかし弟子たちの答えは「いいえ、聖霊があるかどうか、聞いたこともありません」というものだった。私たちも同じではないか。私たちのこの教会にも聖霊が働いてくださるのです。私たちの教会でも洗礼式がある時には「聖霊を求める祈り」をします。しかしそこに「ほんとうに」聖霊が働いてくださるという実感はあまりなかったかもしれません。そうなれば私の指導不足もあろうかと思いますが、聖霊を受けて生きるということを牧師の私が率先してやっていなかったことも大きな要因でしょう。私たちは自分の心のうちに主イエスに来てもらうことを願ったことがあったでしょうか。その主イエスによってほんとうに自分の人生が変えられたいと願ったことがあったでしょうか。私たちにとっての信仰は食事をしたり、睡眠をとったりするのと同じような生活の一部であり、教会に行くのも習慣化しているといったものではないでしょうか。しかし、ほんとうに主イエスが私のもとに来てくださって、私の人生を変えてくださることを信じて祈るならば、聖霊は来てくださるのです。神のご臨在を感じることができるようになるのです。私たちも今日の御言葉に生かされて、押し出されて聖霊を求めて真剣に祈りを合わせるものとなりましょう。