エゼキエル書43:1-7c;マタイによる福音書28:16-20
先週の木曜日、5月18日は、イエス・キリストがお甦りになってから40日目の日でした。世界中の教会ではその日、主の昇天を祝いましたが、キリスト教国ではない私たちはこうして日曜日に「昇天後主日」として礼拝を捧げることもできます。今日私たちは、復活の主イエスが天に昇られたことを憶えて礼拝をささげています。
主イエスが天に昇られたのは神のもとに帰られたわけですが、これは主イエスがすべてのものに及ばれる力を授けられたことを意味します。それはこの世界の悪から私たちを守り、救い、自由を与える力です。
18節以下のところで主イエスは「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と力強く弟子たちに仰せになりました。
もちろんこの当時も主イエスを憎み、弟子たちを疎ましく思い、反対する勢力もありました。しかし、弟子たちは主イエスの力強い宣言のうちに神の語りかけを聴いたのです。ほかのどんなものも主イエスに打ち勝つことはないだろう、そう信じたのです。そしてこのみ言葉は弟子たちの一人ひとりの心に染み渡りました。弟子たちは自分への呼びかけとして聴いたのでしょう。弟子たちのみんながこの日を境に勇気を持って世界中に主イエスのことを、またその教えを伝えるために働き始めたのです。
しかし、今日の箇所にはこの出来事に「疑う者もいた」(17節)とも記されています。他の訳では「ある者はとまどっていた」(本田訳)となっています。主の復活を疑い、戸惑う人たちがいたことを福音書記者は見逃さないのです。「イエスが指示しておかれた山」(16節)に素直な気持ちで登った弟子たちにも、復活の出来事を額面通りに受け取れる者とそうでない者がいたことを聖書は証言します。これは現代の教会にも通ずることのように思います。けれども主イエスはご自身を疑った者をも遠ざけませんでした。「わたしは天と地の一切の権能を授かって」おられる主が、「世の終わりまでいつもあなたがたと共にいる」言ってくださるのです。そして今朝、今ここで同じ言葉を私たちにもかけてくださるのです。
さて、現代に生きる私たちは、福音書に記されている物語を通して、主イエスの昇天の出来事を知らされています。2000年前にガリラヤという「片田舎」の山で主イエスが天に昇られたことを、です。これも主が昇天される前に「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」と言われたあの日から2000年の時を経て、皆さん一人ひとりに、そしてこの私たちの群れにも伝えられたのです。2000年間ずっと主イエスのお命じになった言葉を大切にして弟子たちから人々へ、人々からそのまた主イエスの教えを知らない人々へ伝えられていったのです。こうして福音の言葉は私たちのもとに届けられたのです。
しかし、この言葉は主イエスがただ、たんに「信徒を増やす」というようなことを言っているのではありません。大切なのは、人が福音の教えに出合って、視座の転換をしていくということです。悔い改め(メタノイア)という言葉は神に向きを直すこと、主イエスに出会った者たちが、それまでの価値観からの変換を迫られるものなのです。
使徒言行録1章1-11節の物語には、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(8節)と記されています。
初期のキリスト教団には、ユダヤ人伝道を志したエルサレム教会のリーダーのペトロがペトロたちと、異邦人伝道を志した、パウロやバルナバという使徒たちがいましたが、この使徒たちが主イエスの証人としてエルサレムだけで働いていたなら、私たちのもとには福音は届かなかったでしょう。「地の果てに至るまで」弟子たちは主イエスを伝えようとしたからこそ、今日、アジアの片隅の日本にいる私たちのところまで福音が届けられています。世界中に福音が伝えられた根源は、この主イエスの昇天の日が出発点でありました。
主イエスは言われました。19節の後半からです。「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」すべての人といつも主イエスは一緒にいてくださると言うのです。皆がイエス・キリストに繋がり、いつも一緒にいてくださる。これが福音の素晴らしさです。
2000年前、最初はわずか11人の使徒たちからのスタートでした。しかし、この人たちはそこで怖気づいたり、留まったりしないで主イエスのお言葉の通りに「すべての人」に福音を伝えたのです。「イエスはキリスト」だと、この言葉は2000年の歴史を貫いてきたのです。ある人たちは福音を直接伝える者になりました。またある人たちは音楽や美術などの作品を通して主イエスを表現しました。文字を書くことによって主イエスを伝えた人たちもいました。そして多くの人たちは自分の仕事や普段の生活の中で主イエスを伝えました。これはやはり主イエスが「弁護者」として遣わしてくださった聖霊の働きに他なりません。こうして水紋がじわじわと広がっていくかのように、世界に福音が伝えられていきました。
そして主イエスは今この時も、私たちを世界に遣わされようとしておられます。私たちにはいったい何ができるのでしょうか。
主イエスは20節で「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」と言われました。「あなたがたに命じておいたこと」とは何でしょうか。主イエスが弟子たちに教えられたことはたくさんあります。しかし、その中で一つ選ぶならば、マタイによる福音書22章34節以下です。どうぞお聞きください。
ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』
この「神を愛し、隣人を愛しなさい」ということが主イエスの命じられたもっとも大切な教えです。
主イエスは「あなたがたは行きなさい」と言われます。「そこにじっとしていなさい」「留まっていなさい」とは言われないのです。
「行きなさい」と言われるのです。行かなければ何も広がっては行きません。開かれることもないのです。
最後に主イエスはこう言われました。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」主イエスが一緒にいてくださるのです。主イエスは天にお帰りになって、今は目には見えなくなったけれども、主イエスは聖霊を送ってくださいます。私たちも主イエスの弟子のひとりです。聖霊がいつもいてくださるから恐れるものは何一つありません。私たちがこの主イエスからの聖霊の力をいただいて、すべての人が平和に、幸せに生きられるように、今の自分にできることから早速始めていきましょう。