列王記上19:15-16,19-21;ルカによる福音書9:51-62
日本の教会はよく「内向き」であると言われます。教会の社会活動・奉仕より、聖書や信仰の勉強のほうが好きということでしょうか。たしかに信仰者としての足腰を鍛えるために学ぶことは必要ですが、私たちの日本の教会は、今緊迫した社会情勢に置かれている国でもなければ、政府によって信仰への迫害がなされている国の教会でもありません。そういう意味ではひじょうにのんびりしているところがあるかもしれません。教会での話題を顧みると、年間行事のことであるとか、奉仕者のことであるとか、決してそれらが不必要な話題ではないにしても、「内向き」であると言われても仕方のないところもあります。
私たちは洗礼を受けて、キリスト者となり、教会に所属しています。もう少し簡単に言えば、「キリストに従う者」となったわけです。「キリストに従う」けれども私たちは現実の只中に生きています。毎日教会で信仰の養いを受けているわけではありません。それぞれが別の生活の場に生きています。その中で、イエス・キリストのみ言葉にどうすれば生きて行けるのか、どのようにしたなら主イエスを裏切らずに済むのだろうか、私たちを取り巻く社会情勢は穏やかであっても、きびしい信仰の戦いを毎日していると言っていいのではないでしょうか。でもそうした戦いがなければキリスト者と言えないかもしれません。
最近になってある信仰の友が教えてくれました。「キリスト者とは損をして生きる者だ」という言葉です。私たちは何かを「得よう」と教会に来たのかもしれません。そして洗礼を受けてキリスト者になれば何かが「変わる」のかと期待したかもしれません。けれども現実はその反対のこともあったでしょう。キリスト者は他者に与えるために「損をする」人生であるかもしれません。しかし、自分を捨ててキリストに従う者には「完全なる自由」が与えられます。本物の自由です。
今日の箇所はこういう言葉で始まります。51節です。
「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」。
「天に上げられる」というのは十字架での死が迫っている、という意味です。ある聖書はこう訳しています。
「イエスが〔天に〕取り上げられる日々が満ちた時、彼自らもその面(おもて)をエルサレムに向けて〔決然と〕進もうとした」(佐藤研訳)。
「その面をエルサレムに向けて」とは顔を確固としてそこに向けたのです。この「顔を向ける」という表現は、顔の角度を少しだけ変えたとか、関心を寄せるという意味ではありません。ギリシア語の独特の表現で、そこに向かって本気で、真正面から向き合うという意味があります。すなわち主イエスはエルサレムで待ち受けている自分の最期をじっと見据えたのです。
エルサレムには主イエスを憎み、彼を殺そうとするユダヤ人が居りましたし、エルサレムに向かおうとするイエスとその弟子たちを歓迎しないサマリヤ人(ユダヤ人とは敵対関係にあった)もおりました。しかし、敢えてこの時、主イエスの一行はその険しい道を突き進んでいきます。そのような危険が迫る場所に行かなくとも、ガリラヤに留まっていれば安全であったでしょう。あるいは主イエスの一行をかくまってくれた支持者もいたはずです。
しかし、主イエスの心中はそのような自分の命だけを守ろうとするのではありませんでした。そうしてまで苦しく、険しい道を突き進むのは何よりも、神のみ心であると悟っていたのです。主イエスはすべての人の救い、すべての人の平和を心の底から望んでおられました。
ですからここに興味深い記事があります。ヨハネとヤコブという弟子が自分たちを歓迎してくれない敵対していたサマリヤ人に対して、54節「天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言ったことに主イエスはきびしく戒められたのです。キリストに従う者の条件の一つがここに示されています。それは暴力や強大な力で相手を屈服させるのではなく、人を赦す心、人を愛する心を持つということです。
このような言わば「キリストの道」を歩む時には大きな決断が必要になってきます。59節以下に主イエスの招きに応えて従いたいという人が現れます。しかし、この人はまず「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言いました。その後には、「家族にいとまごいに行かせてください」と願う人もいました。しかし主イエスはいとまごいどころか、父親を葬ることも許しませんでした。この主イエスの態度はあまりに厳しく、人間的ではないと感じてしまうかもしれません。
けれども神の国の福音を伝えるということは、そんなに生易しいものではないし、イエスの十字架の死まであと少ししか時間がない時に、文字通り急務のことでした。主イエスの呼びかけにすべての人間的な思いを捨てて、優先することを求めました。
そして主イエスは今日のみ言葉を通して、私たちをも招いています。この教えは私たちを人間的な欲望から解放し、神の救いを得させるための道でもあるのです。
私は最近、高木顕明(けんみょう)という明治時代に活躍された真宗大谷派のお坊さんがいたことを知りました。彼は徹底的に非戦の立場を貫き、「大逆(たいぎゃく)事件」という明治天皇の暗殺計画を企てた事件に連座して死刑判決を受け、翌日無期刑になりました。この事件自体は、冤罪事件、でっちあげられた作り話の事件でした。こうして天皇制国家に反する者たちの思想弾圧のために作り上げられた事件に高木顕明は巻き込まれてしまうのです。その後お坊さんの資格などを剥奪されて、1914年に残念ながら秋田監獄で自ら命を絶ってしまいました。
この高木顕明は名古屋のお菓子屋さんの息子として生まれ、真宗門徒となり、36歳で和歌山県のお寺の僧侶になりました。彼がお坊さんをしていたのはたった10年だけでしたが、彼のいたお寺はかなりの数の被差別部落の人が門徒となっているお寺でした。当時の部落に人に対して世間の風当たりは強いもので、人間扱いされない露骨な差別が繰り返されました。ほとんどの人は極貧の生活を送っているなかで、住職も門徒も立場の違いはあれど、皆ともに生きていく「いのち」を持っている仲間なのだ(同朋和敬=どうぼうわきょう)。その「共なるいのち」と生きていくとはどういうことか、どのように生きていけばよいか、ということに顕明は目覚めていきました。彼は住職とはお葬式をするためだけの存在ではないだろう。それならば門徒と共に生きていくということはどういうことだろうか。お寺はたくさんのお金を集めて立派できらびやかな本堂を建てることでもなく、お坊さんが高価な衣を着ることでもないだろう等々、今から100年以上も前の人ですが、彼の問いは今この時代に生きている私たちキリスト者にも大切なことを教えているのではないでしょうか。
「鋤(すき)に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」。今日の箇所の最後の62節で主イエスが言われたみ言葉をぜひ心に刻みましょう。油断してほんの少しの間でも主イエスから目をそらしてしまう。そこに悪の力はつけ入るのです。「鋤に手をつけてから、うしろに目を向けているようでは、神の国にしっかりと取り組んでいるとはいえない」(本田哲郎訳)。そして私たちの「顔」はどこに向けられているのか? どこを向いたらよいのか? しっかりと自分自身に問いながら、心を新たにして信仰生活を続けて参りましょう。