罪人一覧

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「人生は困難ではない」ヨハネ9:1-12 中村吉基

道端にいた生まれつき目の見えない人を見てイエスの弟子たちが「いったい誰のせいで彼は目が見えなくなったのか」ときくのが今日の箇所である。日本も昔はそうであったし、本来なら人を救う宗教が「因果応報」という仏教の言葉を使って人の弱さにつけこむ人が今日でもいる。旧約聖書でもヨブ記他このような考え方があり、弟子たちからこのような質問となったのである。この質問は当の本人にも聞こえていただろう。目が見えないだけで罪人扱いされてきたのである。イエスは質問に答えた「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」。そして唾で土をこねその人の目にあててシロアムの池に行って洗うように言う。なぜこんな手間をかけるのであろうか?それはイエスを「信じる」という目を開ける必要があったのかもしれない。見えるようになった後「あれは座って物乞いをしていた人ではないか」と言う人々に対し、本人は「わたしがそうなのです」と堂々と言う。神の業がこの人に現れたのである。続いて「その人はどこにいるのか」と問われると「知らない」と答える。この話はまだ続いていくが、私たちも神を「知らない」と言ってしまうかもしれない。しかし神は私たちを見つけて下さる。それほどまでに慈しみ、祝福されている。

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「かけがえのない存在」ルカ15:1-10 中村吉基

人はなぜ競争し、勝たなければならないのか?仕事や才能、豊かさ、損得をもって価値を決めるのか?と最近よく考える。イエスさまの価値観は現代社会とは真逆のところにある。イエスは徴税人や罪人(とレッテル貼りされた人々)と食事を供にされた。なぜ彼らと親しくするのか不満に思うファリサイ派や律法学者たちと訊かれたとえ話をなさる。100匹の羊、なくした銀貨。いうまでもなく、みつかった1匹の羊や見つけられた銀貨は私達のことである。無事に見いだされるまで神さまは決して喜ばれない。ひとりひとりがかけがえのない存在なのである。