「隣る人(となるひと)」創世記4:1-16 中村吉基
創世記のカインとアベルは神に受け入れられた者と退けられた者である。カインは弟をねたみ殺し神をあざむこうとする。そんなカインを神は見捨なかった。私たちも祈りがかなえられないと、失望することがある。神を自分の利益のために利用するのではなく、隣人と互いに支え合い生きていくことを神は望んでおられる。
Yoyogi-Uehara Church
創世記のカインとアベルは神に受け入れられた者と退けられた者である。カインは弟をねたみ殺し神をあざむこうとする。そんなカインを神は見捨なかった。私たちも祈りがかなえられないと、失望することがある。神を自分の利益のために利用するのではなく、隣人と互いに支え合い生きていくことを神は望んでおられる。
創世記の天地創造は第七の日に完成され、神が安息なさったとある。神にとっては働くばかりではなく休まれる。安息も神聖なことと聖書は教える。安息日は6日の仕事のプレゼントではなく、働くことをやめ神に心を向ける日なのである。そして新しい力をいただき、レクリエーション(再創造)される。神は生き生きとしている姿でいることをお望みであり、神を喜ばせる生き方は人生の最大の目的である。
パウロは現代イスラエルのことを当然知らないが、ローマ書簡を通して現在をとらえる眼差しがどうあるべきかを考えたい。この中で救いとは4つあると示す。〈律法の行為による救い〉、〈律法なしの義認〉、〈変貌による救い〉、そして今日の箇所である〈選びによる救い〉である。パウロは伝道によって集まった異邦人に神殿祭儀を解放することでイスラエルの不信を取り除くと夢見ていたのかもしれない。神の憐れみは人間の信仰ではなく神が中心なのである。そういう意味で現在のシオニズムとパウロの考えは違う。私たちが平和を求めるなら個別の内的確信に基づきその限界を超えなければならないことをパウロは示唆しているように思う。
今日は「告別説教」と言われる箇所である。イエスの人柄や今まで聞いたこともないような「自分を生かしてくれる」教えを信じ従ってきたのにこの別れをきいて混乱した弟子たちに、イエスは「心を騒がせるな」と言い、自分を神のもとへ行く「道」であると続けた。その道とは「心から人を赦しなさい」というものである。また助けが必要な人があれば「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」と言う。福音の言葉を自身の生活にとりいれなければ聖書は「むなしい道徳の教科書」になってしまうが、神は主イエスを信じる者にこの道を進ませる力を与えてくださる。原始教会でも様々な軋轢があったが信仰と聖霊に満ちた人々が解決する中で、教会は神の共同体であり、人は神に似せて作られたものであり、皆が大切にされる居場所であることを示した。私たちの教会もそれに倣い、今年度の年間聖句「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」を覚えて証ししていこう。
今日はイースター。マグダラのマリアたちがイエスの墓を訪れる箇所である。彼女たちは危険を顧みずに墓へ行き、復活を知らされ、喜びを持って弟子たちに伝える。死は深い悲しみが伴うものだが、マリアたちの行動や復活の主との再会が示すように、死は終わりではなく新たな始まりであると聖書は語る。復活のイエスは今も私たちと共にあり、悲しみを共にし、再出発の力を与えてくださる。イエスは弟子たちに「ガリラヤに行きなさい」と告げる。これは単なる地名ではなく、私たちの日常・周縁・必要とされる場所を象徴である。私たちもそれぞれの「ガリラヤ」へと出かけていくことで、復活の主に出会える。
ヘロデによってイエスが殺されたら神の国の福音は人間に伝えられることがなかった。ヨセフはマリアとイエスを連れてエジプトに逃れるが、ヘロデ亡き後、息子アルケラオの支配が及ぶユダヤ地方を避けてナザレに住んだ。ヨセフとマリアは神の子を第一とする信仰を守っていた。神がアダムとエバをおつくりになったときの思いがヨセフとマリアに受け継がれているのである。ところでアダムのあばら骨から「彼に合う助ける者」として作られたエバという表記は長いこと男は女より優位という解釈を生んできた。しかしもともとの言葉は「エーゼル・ケネグドー」、いろいろな意味があるが英語圏では「パートナーとしての助け手」という語があてられている。同じ目線で助けあう存在なのである。我々は神さまから作られたお互い「エーゼル・ゲネグドー」として助け合い交わっていきたい
今日は子ども祝福礼拝、子供も大人も皆で神を賛美します。イエス様は今日の箇所でこんなお話をします。「お金をもらった次男が遊びおちぶれて帰ってきたが父は彼のために無事に帰ってきたお祝いをした。それをみた長男は、自分は真面目に働いてきたのに納得できないというが、父親は長男を認め説得し、かつ、弟の帰還を喜んでほしいという。このたとえ話の父親は神様。神様は立派な人間だけを愛するのではなく、どんな時も誰をも、どんな失敗をしても優しい心で許して下さるのである。
「あなたは生まれ故郷、父の家を離れてわたしが示す地に行きなさい」という神の声をきいてアブラハムが実行したのは彼が75歳の時であった。彼は無鉄砲であったのではない、ひたすら神の言葉に従うと決心していたのである。彼の神さまに委ねて生きる姿に学ぶべきである。召命とは「神が自分に何を望んでいるのか」を考えることだが、それを応えて従うことが献身である。私たちの内面は「執着」や「安定」を求めてしまいがちであるが、神さまは私たちを呼んでくださっている。神さまは私たちに必要なものをすべて備えてくださっていることを信じてみ言葉を信じ、神さまが示す地へ行けるようにしたい。
二千年前の誕生した教会はイエスの「死と復活」を伝えた。聖書は主イエスの「死」を私たち人間の罪のために死なれたと記しているし、パウロは「キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」と書いている。今日から受難週である。ろばに乗ってエルサレムに入ったイエスを、枝を持った人々は「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、/イスラエルの王に。」と叫び迎えた。ラザロが生き返った奇跡を目撃した人達がイエスこそ勝利の王であると熱狂的に迎えたのである。しかしファリサイ派の人々もそれを見ていた。ヨハネは人間の「罪深さ」「愚かさ」「軽さ」を知って悲しくなるような思いでここを記したのではないかと思う。私たちは自分たちの事も自戒しなければならない。他の誰かを思う「熱心」はとても良いことだが、自分だけの思いや利益を追求したり、人から報われることばかりを考える時、その熱心は「熱狂」に変わることがある。自分ではなかなか気がつかないので、自分の闇の部分を神の光で照らしていただく必要がある。熱狂的に主イエスを迎えた群衆は、イエスを十字架で死刑に処することに賛成する。この人間の変わり身の早さ、罪深さを思いながら、今日から始まる受難週を過ごし来週は喜びのイースターを共に迎えよう。
キリスト教は復活のキリストを頭とする「死ねる者たち」と「生ける者たち」の両方から成る共同体である。「蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し」という対比で始まる今日の箇所は、キリストの運命こそがすべての人間の運命にとってモデルないし雛形というパウロの言葉である。近代以降の私たちに他者との命のつながり、ましてや失われた命との交流は可能だろうか?これに対してパウロがもっているイメージは「死者は復活して(/起こされて)朽ちない者とされ、私たちは変えられる」とあるように「変身」である。それ以降も読むと私たちと死者たちの交流が新しく回復されることが含まれる。神の裁きを介して新しく創られ解放される。「朽ちないもの」とは神による和解の達成、それを信じる私たちの死者たちへの連帯、またこの世で傷つけられている小さな命のための祈りである。