パウロ一覧

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「元気を出しなさい」使徒27:21-26 中村吉基

パウロがいつどこで亡くなったかはわかっていないが、3回の伝道旅行後エルサレムで捕縛され裁判のためローマに送られた。今日の箇所はそのローマへの船でのことである。暴風で立ち往生している船の中で人々は長いこと食事をとっていなかったが、その中でパウロは人々に「元気を出しなさい」と励ます。その理由として、昨夜神からの天使がそばにたって「パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ」と語ったのだという。我々は祈りが「聞かれるか」「聞かれないか」を知らないが、この時のパウロは神に見放されていないということを確信している。「もうダメだ」と絶望した時に信仰によって人びとを励まし続けることができるか、私たちは望みなき時にも神を信じ続けることはできるのかが問われている。

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「あなたはそれでも……?」 使徒15:1-12 中村吉基

当初ユダヤ人だけで構成されていた教会は、徐々に異邦人のキリスト者が増えていった。今日の箇所、アンティオキアの教会でも同様であったが、そこで一部のユダヤ人が「割礼をうけなければあなたがたは救われない」と教え始める。しかしそれは福音のメッセージとは違う。パウロとバルナバはこの件につい激しい論争をするが、その判断をエルサレムに託す。エルサレムにはペトロもいた。すでにコルネリウスらに伝道したことですっかり外国人への見方がかわっていペトロは「わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じこと」と主張する。人間が努力をして救いを得ることはできない。私たちが救われるには神が差し伸べてくださる御手につながることである。救いは一方的な神の恵み、神の「無条件」の愛によるものなのである。

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「受け容れる人、拒む人」使徒13:44-52 中村吉基

パウロとバルナバの教えは異邦人には評判がよくたくさんの人に受け入れられたが、「選ばれた民族」と信じていたユダヤ人からは反対された。しかしパウロとバルナバは勇敢に語り、わたしたちは異邦人のほうに行く」と宣言する。「ただ神にのみ栄光を」とは宗教改革者ジャン・カルヴァンが大切にした言葉である。それは神によって救われた生活を送る、神とともに生きるということである。今日の箇所の最後は「他方、弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた」とある。我々は「喜びと聖霊」に満たされているだろうか?自分のため、または自分の利益のためにとなりがちであるが、そうではなく「ただ神にのみ栄光を」、神の愛の中で生きるのである。

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「ことばで土の器に触れる神」コリントⅡ4:6-12 佐原光児

パウロはコリントにあてた手紙の中で人間に対して「土の器」と使っているが、これは旧約から続く、壊れやすさや弱さを象徴するものである。彼は生き方ゆえに裏切りや疑惑、投獄などを経験し心が折れている。しかし人は苦しみの中でこそ「キリストの福音と出会う」と考えた。私たちも経験する苦難は、不信心の罰などではないが、その中でこの脆い土の器と共に生きる神を知っていくのである。今日の箇所でパウロは、創世記から「光あれ」という言葉も使っている。神は打ちのめすような闇の中で、「光あれ」という言葉と共にわたしたちに触れ、共に生きていると分かるように語りかけて下さる。私たちもそうした言葉を、必要な人に運んでいく大切な役割を託されている。

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「恐れるな。語り続けよ」使徒18:1-11 中村吉基

アテネで伝道がうまくいかなかったパウロはコリントにいたユダヤ人への宣教もうまくいかない。イエスをメシアと認めないユダヤ人に口汚く罵られ服の塵を振り払って異邦人へ伝道することを決める。異邦人の人々に福音は受け入れられたが同胞のユダヤ人とは膠着状態にあったパウロは苦しかったはずである。そんな時神はパウロに「恐れるな。語り続けよ。黙っているな」と語りかける。これは神が「共にいてくださる」ということである。今日は平和聖日、第2次大戦中キリスト教会は国策によって合同したが、厳しい弾圧にあった教会もあり、逮捕・検挙された牧師もたくさんいた。教団には、そんな彼らを見捨てた歴史がある。戦後鈴木正久によって、正しい判断ではなかったという戦責告白を公にした。沈黙は罪である。私たちはペトロやパウロの時代に始まって連綿と「平和の福音」を告げ知らせてきた教会なのである。

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「騒ぐな」使徒20:7-12 竹澤潤平

トロキアでたくさんの人が集う礼拝中に窓に腰かけていたエウティコは落ちて死んでしまう。しかしパウロは「騒ぐな」といい礼拝を続ける。実際エウティコは生き返る。イエスも似たようなことをして恐れることはない。ただ信じなさいと言っているが、つまり「騒ぐ必要はない、恐れることではない、泣き騒ぐ必要はない、安心していなさい」という意味である。マケドニア州で反抗され、口汚くののしられても、パウロは主から「語り続けよ」と言葉を受けた。十字架にかかり、殺され、死から復活された御方が語る希望である。主の約束の御言葉によって、安心してこの世を歩み続ける力を与えらる。

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「最期の言葉」使徒7:54-60 中村吉基

ペンテコステの日に聖霊を受けた主イエスの弟子たちは熱心に福音を人びとに伝えていき、主イエスを信じる人びとが爆発的に増えていった。しかし、教会の中で、背景が違うもの同士のいさかいや分配をめぐり人間的な争いごとが起き始める。そこで使徒たちは「“霊〔聖霊〕”と知恵に満ちた評判の良い人」を選ぶように言う。その中の一人がステファノである。彼は非常に評判のいい人物だったようだが、逮捕されて最高法院での裁判にかけられてしまう。キリスト者たちに敵対している人がステファノとの議論し歯がたたず恨みに思い、偽りの証人に証言をさせるからである。今日の箇所の前半はステファノの弁明である。内容は主イエスを思わせるものであるが、聞いていた人々は激しく怒り、石打ちで処刑するという判決を下す。そして人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、都の外に引きずり出して石を投げ始めた、一方ステファノは「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んで眠りについた。主イエスだけを、主イエスの愛のみを見上げたステファノの強く、雄々しい最期である。この石打ちの現場に「サウロという若者」の名前が登場する。

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「異なるものが互いに愛し合って一つになる」 ローマ5:1-5 ジェフリー・メンセンディーク

ペンテコステは聖霊によって私たちの心に愛が注がれた日であり、神様に愛されているがゆえに私たちは聖霊の勢いに押し出され歩みへと招かれる。キリスト教の名のもとにヘイトや偽り、暴力、排他主義、絶対主義が横行しているが、聖書の教える神様の愛に反している。今日の箇所にある4つの言葉平和、恵み、忍耐、聖霊を中心にみていきたい。1つ目は神様との間にある「平和」、命の尊さやその人らしさが神様の創造によるであり、尊厳性の根拠である。2つ目の「恵み」。咎のある人間であるが、それでも神は私たちをご自分との関係に招き入れられ、「神の栄光にあずかる希望」に向かって歩ませてくださる。3つ目は「忍耐」、ある時「異なるものが互いに愛し合って一つになる」と書いてある墓石を見た。この言葉ほど神様の愛の方向性を言い当てているものはない。人間の多様な考え方の違いを超えて「一つになる」。「異なる者」を理解し、また「異なる者」に理解される営みという「苦難」。パウロはよく知っていたし、キリスト者に伝えている。神様の平和と恵みによって忍耐する力を神は用意してくださっていて、それは神様の恵みに対する私たちの応答であり、忍耐の先には希望がある。その助け手が聖霊である。

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「あなたがたは行って……」マタイ28:16-20 中村吉基

5月18日木曜日が主の昇天記念日で世界中の教会で祝われたが、それは主イエスの力が全てに及ぶことを意味する。今日の18節以下で彼は弟子たちにすべての民を弟子にしなさいと言ったが、ただ信徒を増やせばいいのではない。福音の教えによって視座の転換、つまり悔い改めをすることが大切である。二千年前、わずか11人で始めた「イエスはキリスト」という教えを、異邦人にも積極的に伝道し、ある人は音楽や美術など遠して主イエスを表現した。私たちもイエスの弟子である。イエスは私たちに「行きなさい」と言われる。また20節にある「あなたがたに命じておいたこと」というのはたくさんあるが、最も大切なことは「神を愛し、隣人を愛しなさい」である。今日の箇所には「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」とある。私たちも聖霊の力をいただいて今の自分にできることからはじめていこう。

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「あなたがたを友と呼ぶ」ヨハネ15:12-17 中村吉基

今日の箇所は、最後の晩餐の際に弟子たちに話された「告別説教」と呼ばれているメッセージである。中で「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」とある。それは弟子のことだけではなく私たちのこともである。キリスト教徒の迫害の先頭に立ってパウロが復活の主に出会って回心し大伝道者となり、教会をたて各地に長い手紙を書いたのも、全てパウロという人が主イエスの「友」とされた、ということに起因している。私たちは(弟子たちも)「自分が主イエスを選んだ」と思いがちである。しかし今日の箇所には「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」ともある。信仰とは、神や主イエスを信じることも、また教会につながっていることも、すべて神の選びによるのだと信じられるどうかにかかっている。また「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」ともある。」と続く。この教えが実現するときに、復活された主イエスは今この時も私たちの中で生き続けてくださる。今日の箇所の直前の11節で「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜が満たされるためである」とあるが、これが主イエスの言いたかったことの集約ではないだろうか?いつも喜んで、その喜びがいつも満ち満ちているために、神は私たちを選び、そして友と呼んでくださる。このお招きに応えて、喜んで主をお迎えしよう。