パウロ一覧

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「いのちの糧」ローマ14:10-23 中村吉基

パウロはローマの信徒への手紙に「食物規定」について書いている。旧約の律法はさまざまな戒律があり何千年にもわたり守られていたが、その解釈によって、例えば菜食か否かなどで問題も起こっていた。パウロはこの問題について心を痛めていたようである。信徒にむかって、戒律を重んじる信仰の弱い人批判せず受け入れるように言う。食物について、かつてイエスは「すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができない」と言われたが、パウロも「わたしは主イエスによって知り、そして確信しています」「汚れたものだと思うならば、それは、その人にだけ汚れたものです」と続ける。人間は聖俗など分けるが全て神がお造りになったものである。神の関心は誰が何を食べるかではなく魂である。私たちの内側に活きる神が見えなくなる時に神の愛に生きる道から外れてしまう。キリストは、食べ物のことで悩む兄弟のためにも死んでくださってるのである。パウロがいうように「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜び」であり、平和や互いの向上に役立つことを追い求めることがクリスチャンである我々がこの地上の教会を作り上げるようにと招かれている。

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「復活への希望」使徒24:10-21 中村吉基

パウロがエルサレムで逮捕されローマに護送された先で最高法院の代表である大祭司アナニアがその側近に対して弁明する。その前にいたテサロニケでパウロは多くのギリシア人たちを信仰へと導きそれを妬んだユダヤ人が暴動をおこし大騒動となった。またその前のエフェソ等のアジアでも多くの信徒を獲得しているため嫉妬されてる。しかし彼がエルサレムでしていたことは神を礼拝することだけ。パウロは「ナザレ人の分派」と呼ばれ異端とされていたことを「この道」と言い換え、それに従って礼拝し何ら神さまの御心に反するものではない。そして「正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています」と続ける。ファリサイ派の人たちは正しい者だけが復活すると信じていたようであるが、イエスさまは「時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ」、つまりすべての人が復活すると約束している。「私は、神に対しても人に対しても、責められることのない良心を絶えず保つように努めています」と言う。パウロは復活のキリストにあって回心した人物である。ローマの信徒への手紙10章にもあるように「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」と書いている。復活のイエスさまと私たちが、神と私たちがしっかりとつながっていることを示している。私たちは天にある方々と繋がっている。復活の主を仰いで光の中を歩んでいこう。

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「神のために力を合わせる」コリントI3:1-9 中村吉基

パウロがコリント教会にあてた手紙には「霊の人」という語が出てくる。聖霊によって新しく生まれ変わった人という意味で、つまりクリスチャンのことである。反対語は「肉の人」、乳飲み子のように言葉を理解せず信仰者として成熟していない人のことで「ねたみや争いが絶えない」コリントの人々は「肉の人」とパウロは手厳しい。具体的には、コリント教会内でユダヤ人から改宗してクリスチャンになったアポロとパウロのどちらを尊敬するかで言い争っている様子である。パウロは「2人とも奉仕者」、キリストへの信仰に導いた器に過ぎないのに、肝心のキリストを見ていないと嘆く。パウロは信仰者としての成長を植物に喩えている。指導者が種をまき、他の指導者が水を注ぐ。しかし成長は神の業である、人間的なことに思いを馳せる「肉の人」を引き上げて成長させるのは神一人であるという。そして今日の箇所の最後では「わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです」と書く。今年度の代々木上原教会では、「神の同労者」という言葉に大切にして年間聖句とした。私たち一人一人が神の同労者で神が招いてくださった教会で力を合わせて奉仕して教会を形作っていくのである。

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「聖霊によって歩む」2024/04/28 中村吉基

「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい」と今日の箇所は始まる。創世記で神は人間に自由に生きる道を与えて下さったが、それは好き勝手に生きるということではない。パウロは今日の箇所で「霊(聖霊)に導かれて生きることこそが自由に生きることなのだ」と言う。彼は律法は「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって実現すると信じていた。愛するというのも「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして」私たちの目の前にいる相手を愛するということである。しかし「互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい」とも書かれている。そのようにならないように肉の欲望ではなく霊の導きに従って歩みなさいとパウロは言う。肉の望むところは霊に反し、霊の望むところは肉に反するのである。私たちも欲望が尽きることがなく絶えず苦しみを受けるが、パウロは「キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです」と宣言し「霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう」と今日の箇所を結ぶ。聖霊の美徳によって生きるということである。神は人間に自由意志を与えたのは、善に用いるように生かしてくださっているのである。

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「文字と霊」IIコリント3:3-18 廣石望

パウロはコリントの共同体のことを「インクでなく神の霊で石の版でなく肉の心という板に書かれたキリストの手紙だ」という。いくつかの旧約のモチーフがひかれており、「コリントのキリスト共同体はエレミヤやエゼキエルの預言の成就でありそれはかつて破られたモーセのシナイ契約を超える、神が与えた新しい霊によって「肉の心」として体現される神の民」ということのようである。そして「新しい契約」が「霊」の性格をもつとは、その担い手が肉となった終末論的な共同体であること、私たちが神の究極的な働きが現れる具体的な場であること、「文字は殺す」は神との関係の断絶としての死をもたらすという意味であろう。 パウロが言う「文字vs霊」とはユダヤ教や旧約との対比ではない。出エジプトが伝える「モーセの顔覆い」に見られるモーセの顔が放つ光とキリストの栄光との比較と言える。 私たちは、キリストの栄光を受けて新しい人間へと変貌するために聖書を日々新しく読み、神から託された平和の務めを果たしたい。

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「朽ちないもの」コリントI15:30-53 廣石望

キリスト教は復活のキリストを頭とする「死ねる者たち」と「生ける者たち」の両方から成る共同体である。「蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し」という対比で始まる今日の箇所は、キリストの運命こそがすべての人間の運命にとってモデルないし雛形というパウロの言葉である。近代以降の私たちに他者との命のつながり、ましてや失われた命との交流は可能だろうか?これに対してパウロがもっているイメージは「死者は復活して(/起こされて)朽ちない者とされ、私たちは変えられる」とあるように「変身」である。それ以降も読むと私たちと死者たちの交流が新しく回復されることが含まれる。神の裁きを介して新しく創られ解放される。「朽ちないもの」とは神による和解の達成、それを信じる私たちの死者たちへの連帯、またこの世で傷つけられている小さな命のための祈りである。

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「真実は勝つ」使徒26:24-32 中村吉基

今週10月31日は宗教改革記念日、ルターの「95箇条の提題」を記念する日であるが、もう1人の旗手ジャン・カルヴァンの教会で用いられた「ジュネーブ詩編歌」を中心に礼拝を構成している。現代はカトリックとプロテスタントがかつてないほど大きく歩み寄っていて、宗教改革記念日を憶える教会が減っているともきくが、いつでも原点に帰る必要がある。今日の箇所パウロはアグリッパ王の前で弁明している。全身全霊で真実で理にかなったことを話したパウロは無罪を認められたが、ローマに渡り、そこでまた2年をすごす。その間各地の信徒へ手紙を書き「キリストの十字架の死によって神と人間は和解したのだ」と送る。かつてキリスト者を迫害すしていたが、復活のイエスに愛真実を知った。キリストの十字架を心に信じる信仰が有れば神は救ってくださる、パウロの中でこの福音は大きな喜びに変えられて行った。それと同じ信仰の喜びにルターやカルヴァンも気づき、プロテスタント教会に受け継がれている。パウロがどういう最期だったのかよくわかっていないが、パウロは知っていた、「真実は勝つ」と。

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「使徒言行録29章」使徒28:16-31 中村吉基

使徒言行録は聖霊言行録という人もあるくらい聖霊の働きが人や教会を働かせている。ペンテコステの日祈りの家にいた人は皆聖霊を受け、イエスキリストのことを伝えた。酔っていると思われもしたが、3000人の人が洗礼を受けた。原始キリスト教は苦難の連続であった。投獄や鞭打ち、死ぬような目にあうことも度々とパウロは書いている。それを乗り越える力を与えたのは聖霊であろう。当時としては驚きであった外国人伝道、ペトロにとっても抵抗があったものだが、神に咎められコルネリオに洗礼を授ける。パウロも3回もの外国人伝道をする。外国人伝道をすればするほどユダヤ人たちからは疎まれひどい目にあったが、福音のメッセージはすべての人を救いに導くということを伝えたかった。使徒言行録は28章で終わるが、使徒言行録」の最後に記されている言葉「神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた」のようにキリスト教はそこから2000年、神の国を延べ伝えてきた。私たちの教会もまたこの29章に連なり描いていかなければならない

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「元気を出しなさい」使徒27:21-26 中村吉基

パウロがいつどこで亡くなったかはわかっていないが、3回の伝道旅行後エルサレムで捕縛され裁判のためローマに送られた。今日の箇所はそのローマへの船でのことである。暴風で立ち往生している船の中で人々は長いこと食事をとっていなかったが、その中でパウロは人々に「元気を出しなさい」と励ます。その理由として、昨夜神からの天使がそばにたって「パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ」と語ったのだという。我々は祈りが「聞かれるか」「聞かれないか」を知らないが、この時のパウロは神に見放されていないということを確信している。「もうダメだ」と絶望した時に信仰によって人びとを励まし続けることができるか、私たちは望みなき時にも神を信じ続けることはできるのかが問われている。

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「あなたはそれでも……?」 使徒15:1-12 中村吉基

当初ユダヤ人だけで構成されていた教会は、徐々に異邦人のキリスト者が増えていった。今日の箇所、アンティオキアの教会でも同様であったが、そこで一部のユダヤ人が「割礼をうけなければあなたがたは救われない」と教え始める。しかしそれは福音のメッセージとは違う。パウロとバルナバはこの件につい激しい論争をするが、その判断をエルサレムに託す。エルサレムにはペトロもいた。すでにコルネリウスらに伝道したことですっかり外国人への見方がかわっていペトロは「わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じこと」と主張する。人間が努力をして救いを得ることはできない。私たちが救われるには神が差し伸べてくださる御手につながることである。救いは一方的な神の恵み、神の「無条件」の愛によるものなのである。