
「私たちを導く声」ヨハネ10:1-10 中村吉基
人間関係が深くなれば信頼が生まれ、相手のことを思うだけではなくて相手を信頼し、すべてを委ねることができるようになる。それを妨害するのは「恐れ」である。恐れなくなるにはおどうしたらいいだろうか?それは今日の箇所の9節にある「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる」。羊が羊飼いの声をききわけ他の声についていかないように、私たちもイエス様の声をききわけよう。イエス様は羊飼いとして、今日も私たち一人ひとりの名前を呼んでくださっている
Yoyogi-Uehara Church
人間関係が深くなれば信頼が生まれ、相手のことを思うだけではなくて相手を信頼し、すべてを委ねることができるようになる。それを妨害するのは「恐れ」である。恐れなくなるにはおどうしたらいいだろうか?それは今日の箇所の9節にある「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる」。羊が羊飼いの声をききわけ他の声についていかないように、私たちもイエス様の声をききわけよう。イエス様は羊飼いとして、今日も私たち一人ひとりの名前を呼んでくださっている
姦通の罪で石打ちの刑が処される女を前にファリサイ派がイエスに尋ねる。律法を守るのかイエスが説いていた「神さまの赦し」なのかということである。それに対しイエスは「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」と言い、自分の犯した罪を思って投げられなかった人々が立ち去ると、イエスはその女性を罪に定めない、これからは罪を犯してはならないという。罪に定めないとは2つ意味がある。女性がしたことがいいことではないが、赦されたこと神がさまにいつも愛されていることであることを知って精一杯生きてほしいと願い、2つ目は過去よりも今日からの生き方に値打ちがある、再出発の機会を与えて下さる神様であるということである。自分を「正しい」と思わず「正しくあろう」という途上であり、心を柔軟にもちどんな時も軌道修正できることが信仰の中心である。それは自分自身の力ではできない。「そのまま」の自分をしっかりと見つめて、時には軌道修正することで神さまの祝福を受けることができる。
聖書の舞台イスラエルでは水が大変貴重であることから、「水」は神の救いの象徴となっていきました。イエスは渇いた人々に「私のもとに来て飲みなさい」と呼びかけ、魂の渇きを満たす「生きた水」の働きを示しています。また、この「生きた水」は、信じる者の内から他者に広がり、喜びと慰めをもたらすのです。
詩編103:17-22;マタイによる福音書6:10 御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。 もう10年ほど前になるかと思いますが、TIMEという国際的なニュース雑誌が、ショッキング...
イエスが洗礼をうけたときに「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が聞こえた。そこから公生涯が始まったがそれは十字架に終わっている。私たちは生きていく中で様々な困難にぶつかる。人は支えがないと生きていけないが、それは神の支えと言い換えることもできる。神の愛を受け取らないことは罪である。放蕩の限りを尽くした、もしくは尽くしている私たちの帰還を神は待っておられる。
クリスチャンとして生きることは、単に性格や振る舞いを変えるだけでなく、キリストと結ばれることで、過去の自分から新しい自分へと変わることを意味します。渡辺峯さんは、神の導きによって人生を変えられ、信仰と平和への貢献しました。この変化は、「新しい命」を意味し、神が私たちを守り導いてくださることを信じることが大切です。
今日は平和聖日、「平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう」とイエスが言われたとおり、平和を思い浮かべるのではなく作り出すものにならなければならない。沖縄で米国の土地強奪に対して非暴力で立ち向かった阿波根昌鴻の作った「ヌチドゥタカラの家」も壁には「すべて剣をとる者は剣にて亡ぶ」とある。今日の説教題は阿波根さんの言葉である。イエスさまは剣を突きつけた敵たちをゆるされた。「負けて勝つ」とはそういうことである。神さまもまた私たち人間が犯した罪責への悔い改めを受け容れ救いに導いて下さる。
「わたしは天から降って来たパンである」といわれて私たちは受け入れられるだろうか?イエスのこの言葉を聞いた人々は「彼は大工の子で平凡な村人ではないか」とざわつく。それを見たイエスはつぶやき合うのはやめるように、つまり不平を言わず神を見るように言う。イエスは「わたしにつまずかない者は幸いである」とよく言われた。馬小屋で生まれ貧しい人の姿をしたイエスが「天から来た」と言うことが…人は常識を覆されるようなことを言われても即座に信じることはできないのである。しかし私たちと主イエスが結ばれるために神様が手を差し伸べてくださる。人間関係でも心を開いた方が関係はよくなることが多い。神に対しても同じである。私たちは主イエスを本当の「いのちのパン」として信じて受け入れイエスのみ言葉を私たちの日ごとの食物として生きるならば、今日の最後の節51節にあるように「その人は永遠に生きる」ことができる。
パウロはローマの信徒への手紙に「食物規定」について書いている。旧約の律法はさまざまな戒律があり何千年にもわたり守られていたが、その解釈によって、例えば菜食か否かなどで問題も起こっていた。パウロはこの問題について心を痛めていたようである。信徒にむかって、戒律を重んじる信仰の弱い人批判せず受け入れるように言う。食物について、かつてイエスは「すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができない」と言われたが、パウロも「わたしは主イエスによって知り、そして確信しています」「汚れたものだと思うならば、それは、その人にだけ汚れたものです」と続ける。人間は聖俗など分けるが全て神がお造りになったものである。神の関心は誰が何を食べるかではなく魂である。私たちの内側に活きる神が見えなくなる時に神の愛に生きる道から外れてしまう。キリストは、食べ物のことで悩む兄弟のためにも死んでくださってるのである。パウロがいうように「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜び」であり、平和や互いの向上に役立つことを追い求めることがクリスチャンである我々がこの地上の教会を作り上げるようにと招かれている。
外国人の人権のために祈るインターナショナルサンデー礼拝に日本YMCA同盟でウクライナ避難民支援をなさっている横山由利亜さんに支援のきっかけ、現場での話、避難までの、そして避難してからの苦労、戦争というものがいかに人の生活を壊し、人との間を断絶してしまうか。避難をする人たちのともしびとなるための活動であったが、活動を通して「人間の尊厳の大切さ」「日本が多様な人と暮らせる社会か、やり直しができる社会か」が照らされる。「途中ニュース画像は音声ではカット、また原稿にもありません。