礼拝説教一覧

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「裁きとゆるしと」ヨハネ8:1-11 中村吉基

民衆の前で教えているイエスの前に、姦通で石打ちの刑が決まっている女性が連れてこられる。ファリサイ派と律法学者はイエスに対してモーセを通して神が命じたことに対して主イエスがどのように答えるかと挑発のためである。もし私たちがこの場にいたらどの立場だろうか?イエスはかがみこみ指で地面に何か書き、始め立ち上がって「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言われる。そしてみな立ち去るのだが女性は残る。イエスはこの女性に対し「罪に定めない」と言われる。これはこの女性がゆるされたこと、神にいつも愛されていることを思い知って、精一杯に神から与えられた「いのち」を存分に生きてほしいと願われた、また過去に起こってしまったことよりも今日からの生き方に値打ちがあるのだということである。神は人間が再出発するチャンスを与えてくださるのである。我々は裁きの言葉ではなくてゆるしの言葉に聴かなければない。私たちも主のゆるしの中で生かされている。

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「ぶどう酒に変わった水」 ヨハネ2:1-11 廣石望

カナの婚礼の奇跡はイエスの最初のしるしとヨハネによる福音書にはあるが、同時にギリシアのぶどう酒の神ディオニュシオスの神話との関係が深いことが知られている。今日はこの物語を通じて異文化との関係を考える。イエスに先立つ時代のユダヤ教ではヘレニズム文化が圧倒的で、都市エルサレムをヘレニズム都市に改革する試みもあった。これに対抗し律法でユダヤの固有性を守ろうとする人々もあった。またキリスト教の伝播には当該文化の中に入りこむ文化的受肉もあった。日本でも和風の教会建築などがある。カナの婚礼の奇跡物語はディオニュシオス伝説をもとに作られたという学説があるが、溢れるぶどう酒のイメージはすでにユダヤ教において用いられている。またディオニュシオス神話と祭儀はイエスの時代にはパレスティナ地域にも広く行き渡っており、さまざまな地元の神々がディオニュシオスと同一視されていた。ディオニュシオスの神話とカナの婚礼の話には相違点もあるが共通点も多い。このような異文化の相互接触をどのように理解するか。現代社会では、宗教の違いと結びついた文化や政治体制の違いを理由に互いを排除したり攻撃したりする事例が多い。イエスは多数派の利益のために排除の論理によって殺された。私たちは自分たちの宗教的・文化的なアイデンティティーの論理を超えて他者の苦しみに寄り添いその尊厳を共に喜ぶ者でありたい。

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「最初の弟子たち」ヨハネ1:35−52 中村吉基

洗礼者ヨハネが「神の子羊」と言うこの方どんな方か、2人の弟子が主イエスを追う。するとイエスが振り返って「何を求めているのか」と尋ねる。そしてそのまま2人は、ほとんど面識のないイエスに従ってきた。次はペトロである。後に弟子たちのリーダー、教会の指導者となるが、彼の兄弟アンデレから「わたしたちはメシアに出会った」ときき、イエスのもとに馳せ参じた。その翌日はフィリポとナタナエルである。まず「わたしに従いなさい」とフィリポが招かれ「モーセが律法に記し、預言者たちも書いてある方に出会った」とナタナエルに伝える。聖書をよく知っているナタナエルは「ナザレか。ら何か良いものが出るだろうか」と答えるが、イエスと会い「あなたは神の子です」と告白する。今日の箇所だけではないが聖書の物語だけでは人々が主イエスにあった時の輝きやその言葉の力強さは伝わりにくい。私たちは「知らないもの」に対して恐怖を覚えるが主との出会うことによってそれはそれぞれの中で平安な出来事に変えられていくのである。

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同行二人(どうぎょうににん)ヨハネ1:29-34 中村吉基

洗礼者ヨハネがイエスを「世の罪を取り除く神の小羊だ」と言った時、イエスはまだ神の子について説かず奇跡も行っていない、ナザレに住む普通の男だった。それどころか家畜小屋に生まれ十字架で殺されている。人は家柄や裕福さや勤務先などが大切だと思いがちだが、神にはかけがえのない存在である。私たちは神がどんな使命を与えているかということに気がつくことである。イエスは当時重い皮膚病で「罪人」とされたような人々、共同体から追放された人々の「友」となられた。人間社会からから抹殺されていた人びとがイエスによって生きる力を回復させていったことを指して「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と表現した。当時は証言するには2人以上の証人が必要だった。イエスのしたことは、ヨハネに強く印象に残った。だからイエスは神の子だと「証しし続けてきた」のである。その主イエスのいのちをいただいている私たちであるが、現代において、この「世」の人びとの希望となり光となっているとはいい難いだろう。本当に主イエスの愛、いのちにつながっていくことによって、ヨハネのように「わたしはそれを見た」と真実の言葉を語ることが出来る。信仰と思いとことばと行いを新たにしたい。

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「星に導かれて」マタイ2:1-12 中村吉基

今日は、主イエスが世界のすべての人の救い主としてお生まれになった公現を祝う日である。ここに登場する占星術の学者は「マゴス」と呼ばれる人々、「ペルシャないしバビロニア地方の祭司兼賢者で、占星術や夢占いなどをもよくした人」(佐藤研)である。ユダヤ社会では占いは禁じられていた。ヘロデでさえもひそかに呼び寄せたほどである。マタイのテーマの1つは「社会の中で差別されている人びとと主イエスとの出会い」、ユダヤの社会の中で認められてもいなかったマゴス達が幼子イエスの前に最初に拝むことを許されたのである。主イエスは私たちが「持てないもの」(あるいは持たないもの)をすべてご存知で、私たちの重荷や労苦を担うがためにお生まれになったのだ。学者たちは、星によって導かれるままにユダヤの国へ来たが、どこにお生まれになったかはわからなかったのは不思議である。ただ彼らは星を見て喜びにあふれたとある。そしてユダヤの人々にきいてわかった家に着くや否や幼子をひれ伏して拝んだのである。私たちも救い主に出会った時があったが、その喜びが小さくなってきていないだろうか?それを打開する方法は一つ、神が救い主をお与えくださったこのクリスマスの事実を周りの人々にも伝えていくことである。目的の場所まで導いてきてくださるのだという確信と、私たちが普段の生活の中で、他の人々とのかかわりの中で、私たち自身が誰かの「星」になっていきたいと思いながら、2024年の扉を開けよう。

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「愛が生まれた日」ヨハネの手紙Ⅰ4:9-18 中村吉基

イエスがお生まれになった2000年前、イスラエル・パレスティナでは激しい争いが起きた。いつまで続くのか、人はなぜ境界線を作るのが好きなのだろうか。12/10の朝日新聞にはベツレヘムのがれきの中に赤ん坊が待降節の飾りとして飾られている。今日の箇所では「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました」と宣言されている。この時代、「キリストなどいなかった」「福音書の物語はすべて作り話」とするグループがあった。ヨハネの手紙はそのような人々を意識して書かれた手紙である。イエスは人間としてこの世界に来てくださり、私たちがイエスをお迎えする。「神は愛です」ということが実現していれば、神に愛されている実感し、隣人を愛する者になっているはずである。イエスは境界線を壊した。罪人とされる人々と食事を供にし、不浄の人々にイエスから触れた。これはすべて神が分身を用いて人間の作った愚かな境界線を打ち壊したことにほかならない。私たちの毎日は恐れることばかりだが、神の愛には恐れがない、と聖書は言う。クリスマスとはこの神の愛が生まれた日なのである。

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「平和の君の誕生」イザヤ9:1-6 中村吉基

2700年前預言者イザヤが「闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」とイエスの生誕を預言した頃のイスラエルは、アッシリアに侵略され非情で残忍な支配をされており、「闇の中を歩む民」であった。故にイザヤの言葉に耳を貸す人はいなかったが、イザヤは「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」がおうまれになり、神は深い喜びをお与えになり、人々は喜び祝う、と続ける。その700年後、羊飼いのところに「ダビデの町であなたがたのために救い主がお生まれになった」と天使が告げる。「自己中心」という深い闇の中にいる私たちのために、光と調和をもたらすために来てくださった。神は世界の平和の実現のためキリストを通してお与えくださったのがクリスマスである。「自分さえよければ」という思いを棄て、苦悩や悲しみを「神様、救ってください」と祈ってみよう。私たちは弱さを抱え、たとえ小さな力であっても神の平和が実現するように主イエスと共に歩もう。

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「先駆者」ヨハネ1:19-28 中村吉基

聖書にはイエスの誕生日は記されていない。古代教会でクリスマスが祝われるようになったのは4世紀からで、当時流行っていたミトラス教で冬至の12月25日を「不滅の太陽の誕生日」としていたが、キリスト教では「キリストこそまことの正義の太陽」としてこの日を主の降誕日とした。「その日」に「義の太陽」がこの地上の全てを癒すという預言者マラキの言葉もある。さて今日の新約の箇所は「ヨハネは一体誰か?」である。ローマ帝国の支配下で重税や差別に苦しんでいたユダヤの民がメシアを待ち望んでいた時に現れたのがヨハネである。荒れ野で神の言葉を受け、神に立ち返るようにヨルダン川で洗礼運動をしていたヨハネに人々は期待をもって質問するが、ヨハネは自分がメシアでもエリヤでもあの預言者(モーセと考えられる)でもなく「私は荒れ野で叫ぶ声」と答える。これはイザヤ書からの引用とされるが、ヨハネは「後から来られる方」「光(イエス)について証するために」神に遣わされた証し人だと名乗る。私たちも現代においてヨハネと同じ使命を神から頂いている。救いを求めている人に「光」であるキリストを伝え、神が主イエスを救い主としてお遣わしになったクリスマスを祝うことで、洗礼者ヨハネのように「光を証し」していこう。

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「神の言」列王記上22:6−17 中村吉基

北イスラエルの7代目の王アハブは400人もの預言者を集めてラモト・ギレアドをアラムから奪還する戦いをするかを尋ねる。しかしアハブには攻める気しかなく、そこにいた預言者たちも忖度してアハブの喜ぶ言葉を伝える。神の言ではなく人の言である。協力を依頼されたヨシャファト王は他に預言者がいないか尋ねる。そして「いつも災いばかり預言する」ミカヤが呼ばれる。使いのものに言い含められたミカヤは他の預言者と同じようなことを言うが、その後戦争に負け、死を迎えるということ伝える。「神の言」に聴くということは積極的に厳しい言葉にも耳を傾けなければならない。今、世界の指導者を見るときにも「強さ」を前面に掲げて力のない人たちを切り捨てていく現実がある。「平和を実現する」営みとは、神の言に真摯に聴いて、神の時に、神の世界に飛び込むことである。アハブ王が願った「人の言葉」ではなく、「神の言」に従っていきたい。

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「主が来られる」イザヤ52:1-10 中村吉基

今日から待降節、クランツのろうそくの1本目に火がともされた。クランツのろうそくにはそれぞれ意味があり、今日は「預言のろうそく」、「希望」を表している。キリストは旧約聖書に記されている預言の成就としてお生まれになった。2本目以降も「平和「喜び」「愛」を表しており、人間の姿となってきてくださったイエス・キリストからもたらされる。しかし今日の箇所のころは、希望というより絶望の中で大国バビロニアに捕囚され苦難の時期である。しかし解放が迫っている、神は人を見捨てることはない。ヘンデルの歌にもなったこの箇所は、神が人々のために動かれる希望の到来である。これは古のイスラエルだけではなく現代の私たち一人一人の無気力や絶望の深みから救い出してくださる。私たちは、その神の救いを伝え続ける共同体でありたい。