礼拝説教一覧

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「永遠の命の言葉」ヨハネ6:60-71 中村吉基

ヨハネによる福音書6章は5つのパンと2匹の魚からはじまっている。この時男性だけで五千人いた群衆は、イエスが「天からのパン」であり「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得る」と言われ共感できず去っていき、今日の箇所6章60節以下では弟子たち12人だけになっていた。信仰では理解を超えたところにある壁にぶつかることがある。イエスの弟子たちもあり私たちにも同じ可能性がある。イエスは残った弟子たちに「あなたがたも離れて行きたいか」と問うと、シモン・ペトロは「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」と答える。天からのパンであると信じられるということではなく一切を「主に委ねます」という信仰告白である。この言葉にアーメンと言えるものは幸いである。

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「人生は困難ではない」ヨハネ9:1-12 中村吉基

道端にいた生まれつき目の見えない人を見てイエスの弟子たちが「いったい誰のせいで彼は目が見えなくなったのか」ときくのが今日の箇所である。日本も昔はそうであったし、本来なら人を救う宗教が「因果応報」という仏教の言葉を使って人の弱さにつけこむ人が今日でもいる。旧約聖書でもヨブ記他このような考え方があり、弟子たちからこのような質問となったのである。この質問は当の本人にも聞こえていただろう。目が見えないだけで罪人扱いされてきたのである。イエスは質問に答えた「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」。そして唾で土をこねその人の目にあててシロアムの池に行って洗うように言う。なぜこんな手間をかけるのであろうか?それはイエスを「信じる」という目を開ける必要があったのかもしれない。見えるようになった後「あれは座って物乞いをしていた人ではないか」と言う人々に対し、本人は「わたしがそうなのです」と堂々と言う。神の業がこの人に現れたのである。続いて「その人はどこにいるのか」と問われると「知らない」と答える。この話はまだ続いていくが、私たちも神を「知らない」と言ってしまうかもしれない。しかし神は私たちを見つけて下さる。それほどまでに慈しみ、祝福されている。

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「イエスにならう」マタイ4:1-11 中村吉基

先週14日の「灰の水曜日」、昨年の棕櫚の主日に飾られた棕梠の葉を燃やして、その灰をそれぞれの額につけて「土の塵」から想像されたことを思い起こした。今日の箇所では悪魔がイエスを誘惑した箇所である。しかしこの冒頭には〝霊〟によって導かれたのだとある。霊による導きによって悪魔の試練を受ける、すべては神のもとにるのである。さて、誘惑するものは石をパンに変えるように、つまり物質的なモノにように満たされることとと預言者としてのイエスを試している。旧約聖書のエリヤにちなんでいるものである。次に都の神殿の屋根の端に立たせ飛び降りたらどうだ?と誘い、自分さえ良ければいいとする誘惑(十字架にかけられた際に人々から侮辱も同じような言葉であった)と同時に祭司としてのイエスを試している。祭司は神と人の間を執りなす役割なので、神はイエスを助けるだろうというのです。次に悪魔は非常に高い山から国々を見せてもし、ひれ伏してわたしを拝むならこれをみんな与えようという。富と権力に対する試練、そして王としてのイエスを試している。これらに対してイエスは「退け、サタン」と言われる。サタンの誘惑は私たちにも向けられるし、私たちの中にもある。命も富も必要であるが執着してはいけない。私たちは神の言葉に従うことが大切である。神の言葉に導かれ養われることを受難節の課題としたい。

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「主は羊飼い」マタイ8:23-24 中村今日子

信徒の立証による礼拝 新型コロナウィルス流行の中での葛藤のあるデイサービスセンターの運営の苦しさを経て、アッシジのフランチェスコが全ての財産を投げ出して着ていた服も父親に返した場面の(ジョット)を見ようとイタリアに行く。アッシジのサンダミアーノ教会にいく道であった人々、帰り道の暑く日陰もない長く苦しい上り坂の途上、神に祈ること、話しかけることで、この三年半の間の様々な心の葛藤、結果などを思い起こていると、とても遠くに見えていた町の門が突然あらわれた。そこで初めて「長くて苦しいときにこそ、あわてずに、ひと足ひと足ずつ、少しずつ進んで、その時間を神様にお祈りをする時間にすればよいのだ。神様と一緒に歩けば、遠くて辛いと思うような道でも、ちゃんと行先まで進むことができる。 神様は私の行く道を示し、導いて、支えてくださっている。」とわかった。不思議な体験であった。これからの人生も私の行く道を示してくださるイエス様に導かれる羊の群れのうちのひとりとして歩みたい。

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「良くなりたいか」ヨハネ5:1−18 中村吉基

今日の箇所にでてくるのは、病が癒えると言われている池のそばで、その機会なく38年間病に苦しんでいる病人である。イエスがその人に「良くなりたいか」と質問すると、池に入れない悔しさ、嘆きを訴える。次にイエスは「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」と仰る。この病人が正直に言われたとおりにすると、すぐに良くなって床を担いで歩き出した。この日が安息日であったことで後々問題になるのだが、安息日だろうが、平日だろうが、「すぐに」起き上がって行きなさいと主イエスが言われたのであろう。この2千年前の物語を今の我々あてはめてみよう。重大な病気でなくとも、精神的に何かに縛られ囚われ、本来もっている良さが隠れてしまっていないだろうか。つらい目にあっていても、それだけが人生ではない。池のほとりで38年横たわっているのか、起ち上がって前へ進むのか、私たちは今選択を迫られている。私たちの人生に必要なのは主イエスと共に生きることである。38年も池の片隅に横たわっていた人がイエスの「良くなりたいか」をきっかけに新しい人生がはじまったように、私たちも主イエスのみ言葉を心に刻んで歩みだそう。

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「裁きとゆるしと」ヨハネ8:1-11 中村吉基

民衆の前で教えているイエスの前に、姦通で石打ちの刑が決まっている女性が連れてこられる。ファリサイ派と律法学者はイエスに対してモーセを通して神が命じたことに対して主イエスがどのように答えるかと挑発のためである。もし私たちがこの場にいたらどの立場だろうか?イエスはかがみこみ指で地面に何か書き、始め立ち上がって「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言われる。そしてみな立ち去るのだが女性は残る。イエスはこの女性に対し「罪に定めない」と言われる。これはこの女性がゆるされたこと、神にいつも愛されていることを思い知って、精一杯に神から与えられた「いのち」を存分に生きてほしいと願われた、また過去に起こってしまったことよりも今日からの生き方に値打ちがあるのだということである。神は人間が再出発するチャンスを与えてくださるのである。我々は裁きの言葉ではなくてゆるしの言葉に聴かなければない。私たちも主のゆるしの中で生かされている。

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「ぶどう酒に変わった水」 ヨハネ2:1-11 廣石望

カナの婚礼の奇跡はイエスの最初のしるしとヨハネによる福音書にはあるが、同時にギリシアのぶどう酒の神ディオニュシオスの神話との関係が深いことが知られている。今日はこの物語を通じて異文化との関係を考える。イエスに先立つ時代のユダヤ教ではヘレニズム文化が圧倒的で、都市エルサレムをヘレニズム都市に改革する試みもあった。これに対抗し律法でユダヤの固有性を守ろうとする人々もあった。またキリスト教の伝播には当該文化の中に入りこむ文化的受肉もあった。日本でも和風の教会建築などがある。カナの婚礼の奇跡物語はディオニュシオス伝説をもとに作られたという学説があるが、溢れるぶどう酒のイメージはすでにユダヤ教において用いられている。またディオニュシオス神話と祭儀はイエスの時代にはパレスティナ地域にも広く行き渡っており、さまざまな地元の神々がディオニュシオスと同一視されていた。ディオニュシオスの神話とカナの婚礼の話には相違点もあるが共通点も多い。このような異文化の相互接触をどのように理解するか。現代社会では、宗教の違いと結びついた文化や政治体制の違いを理由に互いを排除したり攻撃したりする事例が多い。イエスは多数派の利益のために排除の論理によって殺された。私たちは自分たちの宗教的・文化的なアイデンティティーの論理を超えて他者の苦しみに寄り添いその尊厳を共に喜ぶ者でありたい。

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「最初の弟子たち」ヨハネ1:35−52 中村吉基

洗礼者ヨハネが「神の子羊」と言うこの方どんな方か、2人の弟子が主イエスを追う。するとイエスが振り返って「何を求めているのか」と尋ねる。そしてそのまま2人は、ほとんど面識のないイエスに従ってきた。次はペトロである。後に弟子たちのリーダー、教会の指導者となるが、彼の兄弟アンデレから「わたしたちはメシアに出会った」ときき、イエスのもとに馳せ参じた。その翌日はフィリポとナタナエルである。まず「わたしに従いなさい」とフィリポが招かれ「モーセが律法に記し、預言者たちも書いてある方に出会った」とナタナエルに伝える。聖書をよく知っているナタナエルは「ナザレか。ら何か良いものが出るだろうか」と答えるが、イエスと会い「あなたは神の子です」と告白する。今日の箇所だけではないが聖書の物語だけでは人々が主イエスにあった時の輝きやその言葉の力強さは伝わりにくい。私たちは「知らないもの」に対して恐怖を覚えるが主との出会うことによってそれはそれぞれの中で平安な出来事に変えられていくのである。

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同行二人(どうぎょうににん)ヨハネ1:29-34 中村吉基

洗礼者ヨハネがイエスを「世の罪を取り除く神の小羊だ」と言った時、イエスはまだ神の子について説かず奇跡も行っていない、ナザレに住む普通の男だった。それどころか家畜小屋に生まれ十字架で殺されている。人は家柄や裕福さや勤務先などが大切だと思いがちだが、神にはかけがえのない存在である。私たちは神がどんな使命を与えているかということに気がつくことである。イエスは当時重い皮膚病で「罪人」とされたような人々、共同体から追放された人々の「友」となられた。人間社会からから抹殺されていた人びとがイエスによって生きる力を回復させていったことを指して「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と表現した。当時は証言するには2人以上の証人が必要だった。イエスのしたことは、ヨハネに強く印象に残った。だからイエスは神の子だと「証しし続けてきた」のである。その主イエスのいのちをいただいている私たちであるが、現代において、この「世」の人びとの希望となり光となっているとはいい難いだろう。本当に主イエスの愛、いのちにつながっていくことによって、ヨハネのように「わたしはそれを見た」と真実の言葉を語ることが出来る。信仰と思いとことばと行いを新たにしたい。

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「星に導かれて」マタイ2:1-12 中村吉基

今日は、主イエスが世界のすべての人の救い主としてお生まれになった公現を祝う日である。ここに登場する占星術の学者は「マゴス」と呼ばれる人々、「ペルシャないしバビロニア地方の祭司兼賢者で、占星術や夢占いなどをもよくした人」(佐藤研)である。ユダヤ社会では占いは禁じられていた。ヘロデでさえもひそかに呼び寄せたほどである。マタイのテーマの1つは「社会の中で差別されている人びとと主イエスとの出会い」、ユダヤの社会の中で認められてもいなかったマゴス達が幼子イエスの前に最初に拝むことを許されたのである。主イエスは私たちが「持てないもの」(あるいは持たないもの)をすべてご存知で、私たちの重荷や労苦を担うがためにお生まれになったのだ。学者たちは、星によって導かれるままにユダヤの国へ来たが、どこにお生まれになったかはわからなかったのは不思議である。ただ彼らは星を見て喜びにあふれたとある。そしてユダヤの人々にきいてわかった家に着くや否や幼子をひれ伏して拝んだのである。私たちも救い主に出会った時があったが、その喜びが小さくなってきていないだろうか?それを打開する方法は一つ、神が救い主をお与えくださったこのクリスマスの事実を周りの人々にも伝えていくことである。目的の場所まで導いてきてくださるのだという確信と、私たちが普段の生活の中で、他の人々とのかかわりの中で、私たち自身が誰かの「星」になっていきたいと思いながら、2024年の扉を開けよう。