Shimako F一覧

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「その水をください」ヨハネ4:1-15 中村吉基

ユダヤと敵対関係にあったサマリアの地を通った時イエスはヤコブの泉とよばれる井戸で休んでいた。その時水をくみにきた女性に「水を飲ませてください」と頼む。パレスチナでは水は貴重で井戸は共同管理されており旅人が容易に使うことはできなかった。女性は「なぜユダヤ人がサマリアに頼むのか」と言うが、イエスは、もし私が誰なのか判っていたならば、あなたのほうが私に水を飲ませてくれと言うだろうに……。わたしは生きた水を持っているのだからと返す。生きた水と人間の救いのことである。しかし彼女は理解せずとんちんかんな受け答えをする。私たちも似たようなことをしていないだろうか。神が私たちに実現させようとしておられることを「まさか、そんなことができるはずがない」と否定してしまうのである。創世記でアブラハムとサラも子供をさずかるというお告げを笑ってしまっている。私たちは過去を捨てず、思い込み決めつけてしまう。今日の箇所には「この水を飲む者はだれでもまた渇く。 しかしわたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」とある。私たちにできないことがあっても、神にはそれができないことはない。消極的な自分の内側の声ではなく神のみ声に耳を傾けたい。今日の聖書の最後では、サマリアの女性から「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」という。私たちも神に「その水をください」と素直に大胆に申し出られるものになりたい。

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「いのちのバトン」詩編23:1-6 中村吉基

(この日は昇天者祈念礼拝でした)今日の箇所詩篇23編はユダヤ教の人々も、キリスト教の者たちも何千年にも渡って愛唱されてきた聖書の言葉である。羊は道に迷いやすいらしく羊飼いが必要である。「わたしには何も欠けることがない」とあるが、それは羊飼い(神)がいれば十分に満ち足りるという信仰告白である。神は「正しい道」への導かれるがどんな道か、「死の陰の谷を行くときも」と記してある。人生は順風満帆ではなく絶望するようなこともある。そういう「死の陰の谷」を乗り越えてくるのが人生である。しかし詩篇の作者は「わたしは災いを恐れない」と続ける。「あなたがわたしと共にいてくださる」からである。正しい道に導かれるためには、与えられたいのちを精一杯に生きそのバトンを渡していくことも大切だが、どこに目を向けて人生を歩んでいくのかを考えることはもっと大事なことである。

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「神はどのようなお方なのか」ヨハネ16:1-15中村吉基

今日は三位一体主日である。「神とイエス・キリストと聖霊とはそれぞれ別のお方でありながら、唯一の神さま」という意味であるが、この言葉は聖書にはない。初代のクリスチャンたちの信仰を吟味し総合的にまとめてそれを定式化したもの、実際は公会議などで決まってはいるが「信仰」がまずある。今日の箇所は、ユダヤ人社会が神とイエスが一つであるという理由で弟子たちが迫害されること、しかしそれで信仰を棄てる事がないように、その中でも聖霊が働くことを伝えている。主イエスのみ言葉と生きざまから学び、私たちの心に直接働きかける聖霊に支えられて。世界といのちの造り主である神さまに向かって歩むことが三位一体である。しかし長い信仰生活をしてきた人でも神が見えなくなる時がある。パウロは「わたしは弱いときにこそ強いからです」と記している。神が持つすべてのものを主イエスにも与えられ、聖霊はそれを弟子たちに分け与える。聖霊が神と主イエスに通ずる道を造ってくださるのである。

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三位一体主日礼拝 2024/05/26

本日の礼拝 旧約聖書:イザヤ書40:12-17 新約聖書:ヨハネによる福音書16:1-15  説教:「神はどのようなお方なのか」中村吉基 本日の集会 教会学校:9:00(ティーンズ科第2・第4主日9:5...