Shimako F一覧

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「神のために力を合わせる」コリントI3:1-9 中村吉基

パウロがコリント教会にあてた手紙には「霊の人」という語が出てくる。聖霊によって新しく生まれ変わった人という意味で、つまりクリスチャンのことである。反対語は「肉の人」、乳飲み子のように言葉を理解せず信仰者として成熟していない人のことで「ねたみや争いが絶えない」コリントの人々は「肉の人」とパウロは手厳しい。具体的には、コリント教会内でユダヤ人から改宗してクリスチャンになったアポロとパウロのどちらを尊敬するかで言い争っている様子である。パウロは「2人とも奉仕者」、キリストへの信仰に導いた器に過ぎないのに、肝心のキリストを見ていないと嘆く。パウロは信仰者としての成長を植物に喩えている。指導者が種をまき、他の指導者が水を注ぐ。しかし成長は神の業である、人間的なことに思いを馳せる「肉の人」を引き上げて成長させるのは神一人であるという。そして今日の箇所の最後では「わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです」と書く。今年度の代々木上原教会では、「神の同労者」という言葉に大切にして年間聖句とした。私たち一人一人が神の同労者で神が招いてくださった教会で力を合わせて奉仕して教会を形作っていくのである。

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「あなたがたのところに来る」ヨハネ14:15-21 中村吉基

今日の箇所は「告別説教」と言われ、「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」という約束を中心に「聖霊」と「イエスが供にいる」というや約束がある。始まりの「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」の掟とは「弟子たちがお互いに愛し合うこと」である。イエスは間もなく去るが「みなしご」にしておかない、弁護者、私たちを助けてくれ、寄り添ってくれる存在が来るという。みなしごは普通家族を失った子供に使われるが、この場合はイエスと弟子の関係に使われている。最後の晩餐の後逃げたように、律法学者や祭司たちの批判に耐えてこられたのはイエスが中心にいたからであった。イエスはそのことを責めず「あなたがたのところに戻って来る」「弁護者を遣わす」と約束して下さった。弟子たちがその弁護者に気がつくのはもう少し先である。続く21節の「掟を受け入れ、それを守る人」とは主の福音の教えを行動に表していくことである。そのような人は神にも愛される人であり、主イエスもご自身を現すことによって愛を示していかれる。

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「聖霊によって歩む」2024/04/28 中村吉基

「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい」と今日の箇所は始まる。創世記で神は人間に自由に生きる道を与えて下さったが、それは好き勝手に生きるということではない。パウロは今日の箇所で「霊(聖霊)に導かれて生きることこそが自由に生きることなのだ」と言う。彼は律法は「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって実現すると信じていた。愛するというのも「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして」私たちの目の前にいる相手を愛するということである。しかし「互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい」とも書かれている。そのようにならないように肉の欲望ではなく霊の導きに従って歩みなさいとパウロは言う。肉の望むところは霊に反し、霊の望むところは肉に反するのである。私たちも欲望が尽きることがなく絶えず苦しみを受けるが、パウロは「キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです」と宣言し「霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう」と今日の箇所を結ぶ。聖霊の美徳によって生きるということである。神は人間に自由意志を与えたのは、善に用いるように生かしてくださっているのである。

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「この人たち以上に」ヨハネ21:15-25 中村吉基

先週の続き、ティベリアス湖畔で食事をした後、主イエスとペトロの会話である。主はペトロではなくヨハネの子シモンと呼び、多少言い方の違いはあるが自分を愛しているかを何回も問う。ペトロは聞かれるたびに「愛している」と答える、そうするとまた多少言い方は違うが「私の子羊を飼いなさい」と言われる。何度も聞かれるのでペトロは悲しくなる。主イエスを愛することはキリスト者にとっても牧会においても最も大切なことである。主を愛することなしに信仰生活はおろか、教会の存続すらできない。牧会とは「魂への配慮」とも言われる。ペトロは弟子たちのリーダーで福音宣教にも出て、信者たちの牧会にもあたった。今日の箇所ではそのペトロの殉教についても触れている。またもう一人の弟子もでてくる。その弟子のついてのイエスの言葉の誤解をときながら、証しが真実であることを書いている。実際にイエスを知っていた弟子たちに始まり2000年の時を経て「主イエスを証言する」ことが伝えられてきた。私たちも主の証人である。