Shimako F一覧

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「常に喜びなさい」フィリピ4:4-9 中村吉基

好きな聖句として「常に喜んでいなさい」を挙げる人が多いが今日の箇所では冒頭に「主において」とある。神を、キリストを信じてという意味である。生きているとつらいこともあり喜んでばかりもいられないが、神は喜びに変えてくださるお方だということは紛れもない事実である。「喜べない現実」を乗り越えることができたときに人間としての幅がより広く深くされているのである。イエス・キリストはこのような世界に2000年前においでくださった。私たちが希望を、平和を喜びを、そして神の愛を得るためにはこのイエス・キリストを通らずして実現することはない。それを信じてイエス様を仰ぎ見ることが主において常に喜ぶことである。

クリスマスの準備

代々木上原教会の教会学校のクリスマスの準備が整いました クリスマスツリー アドベントカレンダー ページェントの伴奏の練習 教会学校のクリスマス祝会は12月22日 14時半から ページェント(キリストの降誕劇)やプレ...

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「正義の神は私たちと共に」イザヤ61:1~11 中村吉基

今日の箇所の預言者は通称を第3イザヤといい、イスラエルがバビロン捕囚から解放され破壊された神殿を再建した頃に活動した。無残に破壊された神殿を前に失意のどん底にあった人々に第3イザヤは希望をもって神の言葉を取り次いでいった。「失意の中、力を失くし、絶望し、嘆いている人に」「打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人に自由を/つながれている人には解放を告知」する力を持った「知らせ」である。私たちも苦難の中にあり、時には報復も考えてしまうときもある。しかし神は苦難に喜んで与えているのではなく、私たちがどう対処するかをご覧になっている。神は私たちを高く評価し日々私たちを上昇させようとされている。待降節ははやる心を抑えて待ち、自らの信仰を省みる時である。神にすべて委ねよう。ガラテヤの信徒への手紙でパウロがこう言う「たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります」

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「先が見えないような時にも」イザヤ2:1-5 中村吉基

世界が終わる日、だれもがエルサレムに行って神の神殿で礼拝したくなるとイザヤは言う。天と地を結ぶ場所のエルサレムで神さまが私たちに備えられる「道」を授かり「剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする」、つまり戦争はなくなる。これが神の支配する世界である。これが信じられるだろうか?神さまは私たちの後ろ盾・導き手として道を示してくださる。何も恐れることなく与えられた道で神さまに従っていけばいい。待降節第一主日は希望の日曜日とよばれる。暗い絶望の中にあっても闇の中に輝く神さまの愛の光には「確かさ」がある。私たちがすべきことは、苦難の中にあっても心を高く上げて、まなざしを天に向けて、神さまを仰ぐことである。