「キリストは何者なのか」マルコ8:27-33 中村吉基

イザヤ書48:1-8;マルコによる福音書8:27-33

今日の聖書の箇所を読みますと、イエスさまはご自分の人生の最期がどのような結末になるかをご存知であったようです。
31節にはこうあります。
「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」。
イエスさまは、ご自分が苦しみを受け、殺され、そして復活することを弟子たちに教え始められました。

マルコ福音書の中心

実はこの出来事は、マルコ福音書の中心にある出来事です。マルコ福音書の前半では、人々はイエスさまを見てこう問い続けています。
「この人はいったい誰なのだろう。」
嵐を静め、病人を癒し、悪霊を追い出す。しかし人々はまだイエスさまが誰なのか分かりません。
そして今日の箇所で、一番弟子のペトロがこう言いました。
「あなたは、メシアです。」(29)
ここで初めて弟子の口から、イエスが救い主であるという信仰告白がなされるのです。しかしこの出来事のあと、福音書の流れは変わっていきます。
ここからイエスさまは、十字架に向かう道を歩み始められるのです。

本当に主であるのは、誰なのか

冒頭にはこの出来事が起こった場所はフィリポ・カイサリアだと記されています。この町はローマ皇帝カエサルをたたえるために建てられた町で、皇帝崇拝が盛んな場所でありました。つまり人々がローマ皇帝のことを「主」と呼んでいた場所です。その場所でイエスさまは弟子たちに尋ねたということは象徴的なことでした。
「あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」(29)
それは
「本当に主であるのは、誰なのか」という問いでもありました。

ペトロの信仰告白

この時ペトロはこのように答えました。
「あなたは、メシアです。」(前出)
メシアとは「油注がれた者」という意味です。
旧約の時代には王・祭司そして預言者など、特別な使命を与えられた人に油が注がれました。
ですからペトロの告白は、イエスが王として世界を治める方であり、祭司として神と人を結ぶ方でもあり、そして預言者として神の言葉を語る方なのだというのです。
そのすべてを担う救い主であるという信仰告白でした。

メシアの秘密

しかしイエスさまはここで、不思議なことを言われます。
「このことを誰にも言ってはならない。」
なぜでしょうか。
イエスさまはしばしばこういうことを仰せになりました。福音書には、イエスさまが自分の正体を人々に語ることを禁じる場面が何度も出てきます。
これは「メシアの秘密」 とも言われる箇所です。それはなぜか。当時の人々が「メシア」という言葉を誤解していたからです。
当時の人々はメシアを「政治的な王」「ローマを倒す指導者」として並々ならぬ期待を寄せていました。
しかしイエスさまはそのようなメシアではありません。武力で相手を屈服させるようなお方でもありません。
主イエスは、十字架によって人々を救う救い主です。
もし人々が早くから「メシア」という言葉を広めてしまえば、人々は政治的革命の王としてイエスを担ぎ上げてしまったことでしょう。だからイエスさまは、十字架と復活が起こるまで、自分がメシアであることを公にすることを禁じられたのです。

最初の受難予告

そしてその直後、イエスさまはこう言われます。31節をごらんください。
「人の子は必ず多くの苦しみを受け、……殺され、三日の後に復活する。」
これは福音書の中で最初の受難予告にあたる記事です。ここでイエスさまは、メシアの意味をはっきりと教えられます。メシアとは、苦しみを背負う救い主ということです。

ペトロのつまずき

しかしペトロはそれを受け入れることができませんでした。彼はイエスさまを脇に連れて行き、いさめ始めます。するとイエスさまは言われます。
「サタン、引き下がれ」。
ここで使われている言葉は「わたしの後ろに」という意味のギリシア語です。
イエスさまは弟子たちを召されたときにも同じ言葉を使われました。
「わたしについて来なさい。」(マルコ1:17)
つまりイエスさまはこう言っているのです。
「ペトロよ、前に立ってわたしの道を変えようとするのではなく、もう一度わたしの後ろに従いなさい。」
弟子というもの、主の前に立つ者ではなく、主の後ろを歩く者なのです。

なぜ「サタン」なのか

でもこのとき、ペトロは悪意で言ったのではなかったのです。けれども彼は、イエスさまに「十字架の道に向かうのをやめてください」と言ってしまいました。
これは、荒野でサタンがイエスさまを誘惑したときと同じ内容です(マタイ4章、ルカ4章参照)。サタンは。苦しみのない道を選ぶようにイエスを誘惑しました。しかし神の救いは、十字架によって成し遂げられます。
だからイエスさまはこのとき、ペトロに言われたのです。
「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」(33)
これは重い言葉です。私たちにも語られている主の言葉です。神をどこに置いているのか。一番下にしているのではないか。自分のことばかり優先し、神を踏み台にしているのではないか。

自分の十字架を背負う

そしてイエスさまは弟子たちと群衆に言われます。もし誰でも「わたしのあとに従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(34節)
自分を捨てるとは、自分を嫌いになるということではありません。自分中心の生き方を捨てることです。自分の思いを実現することではなく、神の思いに従うことです。今、私たちは受難節の旅を続けています。私はこう思います。信仰というものは自分の思いではなく、神の思い、神の御心にどれだけ自分を「一致」させていくことができるかという営みです。

私たちへの問い

今日イエスさまは、ペトロだけではなく私たちにも問いかけておられます。
「あなた(がた)はわたしを何者だと言うのか。」
この問いは知識の問題ではなく、人生の問いです。
イエスさまは今このときも私たちの心の扉を叩き続けておられます。
「あなたはわたしを何者だと言うのか。」
この問いに向き合うとき、私たちもペトロのように新しい人生の扉を開くことができるのではないでしょうか。

「あなたはメシアです」
ペトロはこう言いました。
「あなたはメシアです。」
これは単なる感想ではありません。この言葉は 「最初の信仰告白」 とも言われます
教会には古くから 信仰告白 があります。
たとえば讃美歌の93-4というところをお開きいただくと、「使徒信条」「ニケア信条」という教会の遺産的信仰告白を読むことができます。しかしこれらは後の時代にまとめられたものです。
最も古い信仰告白は、とても短いものでした。
原始キリスト教会では「イエスは主である」という言葉が信仰告白でした。ローマの信徒への手紙10:9(288ページ、新共同訳)にはこう書かれています。
「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われる」。
そして今日のペトロの言葉です。「あなたはメシアです」は、その最も古い形の一つなのです。

信仰と「知識」は違う

ここで大切なのは、信仰告白は知識ではないということです。ペトロは神学を勉強していたわけではありません。一介のガリラヤ湖の漁師でした。
しかし彼はイエスさまに出会い、従う者になり、そしてこう言いました。
「あなたはメシアです。」信仰告白とは、イエスと出会った人の言葉なのです。
ただし、ペトロの信仰はまだ完全ではありませんでした。彼はイエスがメシアであることは告白しましたが、そのメシアがこれから十字架につけられるメシアであることは理解していませんでした。
だからイエスさまをいさめるのでした。。
つまりここには、信仰の始まりが描かれているのです。
ペトロはこのあと、イエスを三度否定します。
しかし復活のイエスに出会い、回復されます。そして最終的には、
十字架のキリストを宣べ伝える使徒として、伝道のわざに邁進していきました。
信仰というものは、一度の告白で完成するものではなく生涯を通して深められていくものです。

私たちはどのように信仰を告白するのか

今日イエスさまは私たちにも問いかけておられます。
「あなたは、わたしを何者だと言うのか。」これは教会全体への問いであると同時に、皆さん一人ひとりに主は問われています。
教会は、言い換えてみればこの問いにこたえる人々の集まりです。
ペトロの言葉のように、
「あなたはメシアです。」
と告白するところに教会は生まれます。
「あなたは、わたしを何者だと言うのか。」
この問いに答えるとき、私たちの信仰もまた始まるのです。