「神の国はあなたたちのところに」マタイ12:22-32 中村吉基

イザヤ書35:1-10;マタイによる福音書12:22-32

聖書の時代には、病気や災いは悪霊の仕業と考えられていました。今日の箇所には悪霊によって目の見えない、口の利けなくなっていた人が主イエスによって癒されるというエピソードが記されています。この光景を一部始終見守っていた群衆たちは

「この人はダビデの子ではないだろうか」(23節)

と言った、と福音書は伝えています。「ダビデの子」というのは今まで民衆が待ちわびた救い主という意味です。ヘブライ語聖書ではメシアはダビデの子孫から出るとされていたからです(サム下7:12-14,イザ9:5−6,11:1-5など)。岩波書店訳の聖書では群衆が「度を失うほど驚嘆し」(佐藤研訳)とあります。まさに興奮状態にあってこう言ったわけです。

ですから主イエスの行く先々に群衆は押し寄せてきました。その中には病んでいる人、貧しい人、さまざまな人が主イエスに何かを「期待して」集まってきます。彼らの「期待」に応えて悪霊を追い払い、病を癒し、主イエスの評判はますます高まっていくばかりでした。

ある時悪霊に取り憑かれて目が見えず、話すこともできない人が主のもとに連れてこられました。目は見えず、口もきけないこの人は、耳だけは聞こえていたのかもしれません。そのことについて何も記されていません。だからこの人は主イエスの評判をどこかで聞いていたのかもしれないのです。主イエスの居る場所に連れて行ってほしいと懇願してここに来たのかもしれません。今日の箇所の直前12章19節には「彼は争わず、叫ばず、その声を聞くものは大通りにはいない」イザヤ書42章のいわゆる「僕(しもべ)の歌」と呼ばれるところから引用され、主イエスになぞらえて記されます。確かにそうでした。大通りにいて主の言葉に聴こうとしない偽善者達が大勢いたのです。しかし、この人は主のもとに連れてこられ、言葉を話し、ものが見えるようになったのです。

このような癒しのわざが行われるごとに「イエスとはいったい何者なのだろう?」という問いが民衆たちに湧き上がってきて当然でした。そしてこれは私たちの間でも同じですけれども人気者の登場というのは、その反対に、その人気を疎ましく思ったり、妬んだり、ストレートに大嫌いだったりする人達をも生み出していくわけです。

その一例としてファリサイ派の人達がここに登場します。彼らは主イエスの力によって悪霊が追い出されている事実を認めていました。しかし認めてはいたけれども主イエスのその力が神から来たものだとは認めませんでした。なぜならそれを認めてしまうとこのイエスという男を「救い主」だと認めることになるからです。そして自分たちが誇らしげに守ってきた権威に傷が付くからです。それは今までの自分をすべて否定することにつながることでした。皆さんもこの気持ちがわかるのではないかと思います。自分が背負ってきたもの、自分が大切にしてきたもの、それは物質的なものだけではなくて、自分の奥にある価値観だったり、厳かなものであったり、そこが侵されるような経験をすると途端に焦り出すのです。反撃に出るのです。

そこで彼らはこう言います。24節「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」つまり、ファリサイ派の人々は、主イエスは神の子ではなく悪霊の支配者であると言うのです。先ほど引用しました12章19節「彼は争わず、叫ばず、その声を聞くものは大通りにはいない」。ファリサイ派はこの「ダビデの子」に聴く態度などさらさらありませんでした。

この後28節には「神の霊(聖霊)によって悪霊を追い出す」ことが記されていますが、ファリサイ派たちはまことの神の言葉に聴こうとしませんでした。それゆえに聖霊によって悪霊を追い出すこと、また聖霊は神の息吹として私たちに神の言葉を送り出す存在であることも知らなかったゆえに、主イエスを「悪霊の頭ベルゼブル」によって悪霊を追い出していると主張しました。

そこで主イエスはファリサイ派の人々に反論します。25節から「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、どうしてその国が成り立って行くだろうか。」

どんな国や町でも、もし内部分裂が起こったならば共同体として機能しなくなるものだ。だからわたしが行った癒しの奇跡は悪霊によることではあり得ないというのです。これは世界の歴史を知れば一目瞭然です。内戦が起これば国は成り立たないことは私たちもよく知っています。

27節では わたし(イエス)がベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。あなたたちの仲間にも悪霊追放をするものがいるではないか。彼らはいったい誰の力で悪霊を追い出しているのか? と記しています。これは先ほどお話ししましたが、ファリサイ派の人々の行ったことは、自分たちの主張や考えや作り上げてきた世界を捨てて新しい世界に飛び込むことを恐れて、イエスを悪霊に結び付けてしまうそのやり方を聖霊への冒涜、聖霊に言い逆らうものだと言われます。もしも彼らが素直で、謙遜であったならば聖霊に導かれて主イエスこそ救い主であると告白する恵みが与えられていることに気づくことが出来たでしょう。

31、32節「だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」

ここでは聖霊に対する無礼な罪について言っているのですが、前に書かれている主イエスとファリサイ派の人々とのやりとりを理解しないでここだけ読むとつまずきかねません。ここでは、神の霊によって行われた業を頑固に悪霊の仕業とする態度をとり続ける限り、その罪は決してゆるされないということが書かれているのです。

また「ゆるす」という言葉には2つの意味があります。それはこれから起こることを「ゆるす」(許可する)という意味と、もう一つは過去に起こってしまったことを「ゆるす」という意味です。神は愛なる存在であり、人の心の奥底まで見通されるお方ですから、たとえどんな罪を犯した者でも、謙遜に神に立ち帰るならばゆるされない罪はありません。神は罪びとが回心して立ち帰ることができるために、イエスを世に送ってくださったのです。

主イエスと私たちの出会いは、私たちの側で変革することを求められます。その中で主イエスは自信満々で生きてきた世界や考え方を捨てて、主イエスと同じように他者を愛してやまない者になる世界へと私たちを招いておられます。自分のこれまで生きてきた世界をすばやく変えることができる謙虚な心を主イエスと出会う中で得たいと思います。

誰でも自分の守備範囲というか、これまでずっと慣れてきた場所や考え方とか生き方から方向転換するというのは容易ではないと思います。しかし、その狭い範囲だけで生きるのは私たちがより自由で大きな心を持った生き方をすることが不可能になるのです

神が人となった出来事、それだけで常識はずれだといえます。そして人となった神が十字架に架かってその生涯を終えるということもまた驚くべきことです。

私たちは灰の水曜日に、また先週の礼拝で灰を額にいただき、自分たちは土の「ちり」から造られたものに過ぎないということを再確認しました。神は御ひとり子を与えるほどこの世を愛されました(ヨハネ3章16節)。私たち人間は本当に小さく弱いものです。そして罪深い者たちです。この汚れて「ちり」に過ぎない私たちに、十字架で無惨な姿で殺害された主イエスは、大きな愛を私たちに与えてくださいました。

いつも私たちはそうありたいのですが、この受難節の時に、神の前で、罪をおわびする、そしてゆるしていただく。また謙虚さが足りないときにじっくり祈って、神に方向転換をするすなわち悔い改める力をいただきたいと思うのです。 

私たちの主であり、憐れみ深いイエスさまに目を留めることからすべては変わって行きます。こんな罪深い私のようなもののところに、「神の国は来た」と宣言してくださっているイエスさまが来てくださった! このことに私たちの気付かされた時に、私たちの憂いも不安も拭い去られるのです。主イエスの言葉を心に刻んでこの新しい1週間の旅に出発しましょう。

主イエスは皆さんに今、こう言われます。 「神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。