「正直に生きる」ヨハネ8:1-11 中村吉基

出エジプト記34:4-9;ヨハネによる福音書8:1-11

私の出身地、石川県に今は広域合併をして白山(はくさん)市と呼ばれているところがあります。この街の一部は以前には松任(まっとう)と呼ばれていたところですが、ここに暁烏敏(あけがらす・はや )という真宗大谷派の僧侶がおられました。1877(明10)年生まれで1954(昭29)年に亡くなっておられます。数え切れない本を著して、浄土真宗の、あるいは仏教の教学に貢献された方です。金沢大学図書館には彼を記念した文庫があります。私は暁烏のお名前を初めて聴いたのは高校生の時、教会の牧師からでした。地元の教会の牧師までに知られている名説教師のお坊さんであったとのことです。

この暁烏がある日のこと、親鸞(しんらん 1173-1262)の有名な言葉「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」(善人が往生するのであれば、ましてや悪人はいうまでもない)という「悪人正機説」を説いてお話しをしていた時に、突然聴講していた人から、「先生、悪人が救われるなら、正直者はバカを見ます」と言ったのです。それに対して暁烏さんは「正直者? いるなら前へ出てきなさい」と答えたのでした。

私はこの話を聞いた時に今日の箇所を思い起こしました。姦通をしていた女性が現行犯で捕らえられ、イエスさまの前に引き出されてきます。古代のイスラエルにおいて男性が他人の妻、または婚約者と性的関係を結ぶことは律法で厳しく禁じられてきました(しかし、独身者と関係を結ぶことはキリスト教の時代になってから禁じられました)。もちろん男性のみならず女性も同罪(レビ20:10,申命記22:23-24)となったのですが、なぜかこの場面には相手の男性は出てきていません。男のほうはどこへ行ってしまったのか、見逃されたのか、どこかへ隠れてしまったのか真相はわかりません。しかし、この状況から見て当時、女性に対する厳しい見方、差別があったのではないでしょか。

実はこの女性をイエスさまの前に引っ張り出してきたファリサイ派、律法学者たちにはもう一つの思惑があったのでした。それは現場で捕らえられて、何を言っていいのか判らないこの女性をうまく利用して、イエスならばどうこれに対処するだろうか、ファリサイ派、律法学者たちはイエスを貶める罠としてこの女性を引きずり出してきたのです。

律法学者やファリサイ派はこう言いました。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」。

彼らは執拗にイエスに問い続けます。彼女を処刑すべきかどうか、ということを…です。当時の律法では姦通を犯した者は石打ちの刑(死刑)に遭うことになっていました。けれどもイエスがこの女性を赦したならば完全に律法違反になり、石打ちの刑を処するように言うならば、これまで神さまの赦しのメッセージを説いてきたイエスの教えには反するのです。その盲点を突いてファリサイ派、律法学者たちはイエスにしつこく迫りました。
ちなみに私たちの聖書の翻訳では「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました」となっています。しかしここは本来「姦通をされている」となっています。つまりこの女性が男性から誘われていたのか、あるいは実際に誘われて罪を犯した事態を指しています。そうであるならば誘った方の男はどこへ行ってしまったのでしょうか。そしてこの箇所は「姦通をしているときに」とも訳されているのですが、いくつかの翻訳では「姦通をしている現場で」となっています。この「現場」という言葉は元々は「盗人」「本人」とも訳される言葉ですが、ここでは転じて「現場」とも訳されているわけです。

さてそこにはイエスさまの教えを聴きに来ていたたくさんの民衆がいました。彼女は見世物のように真ん中に立たされていたわけですが、民衆もイエスがどのようにしてこの女性を救うのか、固唾を呑んで見守っていました。6節にはこう記されています。

イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。

この行為が何を意味しているのかは判りません。今日まで諸説いろいろとあるところです。私などはそこでファリサイ派への批判を書いていたのではないか、などと邪推してしまいますが。律法学者たちが間違って引用した(つまり男女共にではなく、女性だけを石打ちにしなさいということ)レビ記20:10や申命記22:23-24の言葉を書いていたというのではないか、という学者もおります。ずっとそこにたたずんでいるイエスに人々はどんな視線を送っていたのでしょうか。何とかしてほしいと思う反面、頼りない弱々しいイエスに映っていたかもしれません。

そこでイエスさまは言われました。

7節です。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」

このイエスさまの言葉はそこにいたすべての人の心にズシンと響きました。皆がそれぞれ自分自身を見つめ直さざるをえませんでした。好奇の目をもって女性を見つめていた一人ひとりのうちに、自分も裁かれなければならない罪をそれぞれに持っていることを思い知らされました。それはだれも知らないかもしれない、けれども神さまはご存知であるはずの自分の犯した罪を思うときに、彼らはこの女性に石を投げることなどできませんでした。一人、また一人と立ち去っていったのです。9節によれば「年長者から」立ち去ったと記されてあります。人生経験の長い人から自分の歩んできた道を振り返った時に悟ることが多かったのでしょうか。やがてそこには主イエスと女性の2人だけになってしまいました。あのイエスを貶めようとしたファリサイ派や律法学者たちさえもいつの間にかいなくなっていました。そしてイエスさまは彼女を罪に定めないと言われたのでした。
長老たちや律法学者たちはこの女性を有罪にすることはできませんでした。自分たちの内側に罪を見たからです。イエスさまは罪のないお方にもかかわらずこの女性を有罪にしませんでした。このヨハネによる福音書3:17には「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」と記されていますが、この女性もその救いに与ったのです。

「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」(11節)

この「罪に定めない」という言葉には二つの意味が込められています。まず一つ目は女性のしたことを良いと認めているわけではありません。しかし主イエスはこの女性が赦されたこと、神さまにいつも愛されていることを思い知って、精一杯に神さまから与えられた「いのち」を存分に生きてほしいと願われたのです。石打ちの刑によって死ぬことよりも、いのちをフルに生きたほうがいいに決まっている。わたしはあなたに精一杯生きてほしい、そういうイエスの愛に満ちあふれたみ言葉でした。

二つ目は、イエスさまはこの女性の過去を問うてはいません。つまり過去に起こってしまったことよりも今日からの生き方に値打ちがあるのだ、と見ているのです。イエスさまの指し示した神さまは人間が再出発するチャンスを与えてくださる神さまです。「行きなさい、これからはもう罪を犯してはならない」というみ言葉には、「これからはもう神さまを悲しませる生き方から離れて、神さまの愛に全身を委ねる生き方を選び取りなさい」という軌道修正への促しが込められているのです。

冒頭にお話しをした暁烏敏と聴講者のやり取りの話をしましたが、きっと聴講していた人は自分自身を「正直者」だと言いたかったのでしょう。この人はそういう思いから「私は損ばかりしている人生だ」と思っていたかもしれません。しかし、私たちはイエスの話にしても、親鸞の話にしても、自分を善良な者の中に入れて聞いています。自分を悪人とは思っていません。自分を姦通の女性になぞらえることはありません。常に自分を「良い者」だと思う傾向があります。けれどもその傾向が強くなればなるほど、人の過ちを認めることができません。自分のことばかり考えています。自分が良い者、正しい者だと主張するのです。イエスさまはそういう人の心というか習性をよく見抜いていました。だから言ったのです。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」。

私たちの心が柔らかで、「柔軟さ」を持つ人間になることが大切です。自分は良い者、正しい者だと思うのではなく、良い人間になろう、正しい人間になろう、今はその途上にあるのだ。神さまのみ言葉、イエスさまの教えを身につけて正しく生きて行く知恵を求めて生きることこそが、キリスト教の真髄です。私たちはご利益を求めて礼拝に来ているのではない。いつでも、どんな時にも軌道修正ができる柔軟な人間を造ることこそが、私たちの信仰の中心テーマと言って良いと思います。

人間、歳を重ねれば重ねるほど、頭が凝り固まって、偏った見方をしているにもかかわらずそれを「良い」とか「正しい」と思ってしまいがちです。もちろん長い人生の中で培われてきたことはあるでしょう。でも私たちは右や左に曲がって行ったなら軌道修正しなければならないでしょう。しかしそれは自分自身の力ではできないのです。私たちは神さまのみ言葉を聞いて、軌道修正させていただいているのです。

私たちが人生の旅の中でただただ突き進むだけではなくて、時には立ち止まったり、自分の立っている場所をしっかりと見つめることが出来れば本当にさいわいなことです。それは私たちが「成功」することを目指すのではなく、むしろ「失敗」した時に私たちはどう軌道修正をしていけるかが問われるところです。正直の「正しい」という字は「止」に数字の「一」が合わさっています。私たちの歩みが止まってしまったところ(失敗したところ)が「一」(スタートライン)なのだと言えるでしょう。そして正直の「直」は「じきに」などと言いますが、スタートしたら間もなく状況は変わっていくだろうというのです。どんなに悲しく、辛いことがあってもその後には祝福が待っています。神さまの祝福を受けるには「そのまま」の自分をしっかりと見つめて、アクシデントがあったら、立ち止まって軌道修正することによって得られるのです。

「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」。

「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」