出エジプト記34:29-35; コリントの信徒への手紙II3:3-18
I
この箇所でパウロは、自分たちは心に書き込まれた新しい、霊的な契約の奉仕者であり、それは古い、石に書き込まれた文字的な契約とは質的に異なると言います。
「古いvs新しい」の対比は、容易に「ユダヤ教vsキリスト教」の対比を連想させます。西欧のキリスト教には、自分たちはユダヤ教より優れているという差別意識がついてまわります。とりわけ現在のガザ戦争に関連して、世界中で親アラブ、そして反イスラエルの論調が高まっています。先日スイスでは、チュニジア系のスイス国籍の少年が、町で正統派ユダヤ人男性をナイフで刺して重症を負わせるという事件がありました。どうやら過激派ハマスが望んだとおりに、ことが進んでいるように感じます。
あるいは「古いvs新しい」を「旧約聖書vs新約聖書」の意味に受けとる人がいるかもしれません。ユダヤ教は旧約聖書の「文字」に拘泥し、その実行によって救いを求める行為義認の宗教であるのに対して、キリスト教は「霊」に信頼する信仰義認の宗教であり、それが新約聖書に証言されているという具合に。有名どころでは、シノペのマルキオン(AD 100-160ころ)が似た考えです。彼によれば旧約聖書が証言する神は「怒りと妬み」の神である一方で、イエスの神は「愛と慈しみ」の神であり両者は別物です。イエスの神は新しい神なので、キリスト教に旧約聖書は不要だとマルキオンは主張しました。
これらの連想的な対比に対しては、大きな用心が必要です。まずパウロの時代のキリスト教は、まだ当時のユダヤ教内部のひとつの流派です。パウロが目指したのはキリスト教の確立でなく、むしろユダヤ教の改革でした。次に、パウロ時代に『新約聖書』はまだ存在しません。ユダヤ教徒である彼にとって、『旧約聖書』こそが聖なる文書であり、さらに現在ある正典には入らない外典・偽典文書のいくつかも、権威あるものと見なされました。
つまり本日のテクストでいう「文字vs霊」の対比は、ユダヤ教や旧約聖書を否定するものではありません。では、いったい何のことなのでしょうか。ごいっしょに考えてみましょう。
II
冒頭でパウロは、書簡の宛先であるコリントのキリスト共同体に対して、「君たちがキリストの手紙だ」と言います(3節)。その文脈は、パウロがコリントを去った後に当地にやってきた、おそらく反パウロ的なキリスト教宣教者たちが「推薦状」を持参したことにあります。新共同訳「キリストが私たちを用いてお書きになった」とあるのは、原文では「私たちによって奉仕された」です。その後にも出る「奉仕」とは、共同体の創設を含意します。〈パウロは私たちのように推薦状をもっているのか〉という批判に対して、彼は〈それは君たち自身であり、しかも広く世に知られ読まれている〉と答えるわけです(2節)。
さらにパウロは、推薦状ないし手紙としての共同体という比喩を、筆記用具ないし素材という視点から展開します。君たちは、〈インク(墨)でなく神の霊〉によって書かれ、しかもそれは〈石の版でなく、肉の心という板〉に書かれた存在だ(3節)。――ここには、いくつかの旧約聖書のイメージが反響しています。
「石の板」については、出エジプト記に次のようにあります。
主は、シナイ山でモーセと語り終えられたとき、二枚の証しの板、神の指で書かれた石の板を授けられた。(出31:18――申9:10-11も参照)
「神の指で書かれた」とは、神が契約の直接的な当事者であることの保証、また「石」に書かれたとは、その契約の永続性と不変性の強調でしょう。
しかし、パウロは筆記素材について「石の板」でなく、「肉の心」という板に刻まれたと言います。これはもちろん、エレミヤ書の有名な約束の反響です。
31 その日が来る――主の仰せ。私はイスラエルの家、およびユダの家と新しい契約を結ぶ。32それは、私が彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に結んだ契約のようなものではない。私が彼らの主人であったにもかかわらず、彼らは私の契約を破ってしまった――主の仰せ。33その日の後、私がイスラエルの家と結ぶ契約はこれである――主の仰せ。私は、私の律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心に書き記す。私は彼らの神となり、彼らは私の民となる。(エレ31:31-33)
神の律法が「心」の中に書き込まれるので、もはやきょうだいたちは互いに「主を知れ」と教え合う必要がありません。「彼らは皆、私を知るからである」(34節)。この状態がコリント教会において、すでに実現しているとパウロは認識しています。
「肉の心」(新共同訳「人の心」)という独特な表現は、おそらくエゼキエル書の約束を受けています。
あなたがたに新しい心を与え、あなたがたの内に新しい霊を授ける。あなたがたの肉体から石の心を取り除き、肉の心を与える。(エゼ36:26)
パウロが、筆記素材を「石(の心)」でなく「肉の心」と、また筆記道具を「インク」でなく「神の霊」と言うのは、この箇所がてがかりになっているでしょう。
以上を総合すると、パウロの見るところ、コリントのキリスト共同体は、エレミヤやエゼキエルの預言の成就であり、それはかつて破られたモーセのシナイ契約を超える、神が与えた新しい霊によって「肉の心」として体現される神の民だということです。
旧約預言がなければ、パウロもコリント教会の信徒たちも、自分たちが何者であるかは分からなかったでしょう。また、教会における霊的経験がなければ、旧約預言の真の意味を理解することもできなかったでしょう。
III
さてパウロは、エレミヤが「新しい契約」について、またエゼキエルが「新しい霊」について語るのを組み合わせ、「新しい契約」を「霊」の契約であると言います。
新しい契約の――つまり文字でなく霊の(契約の)――奉仕者として、神が私たちを十分なものともした。文字は殺すが、霊は命を創るのだから。(6節)
「奉仕者」という考えは、旧約預言には出ません。しかし信仰共同体の創設、形成そして改革に奉仕者は不可欠です。新共同訳は「資格」について語り、なんだか牧師検定試験や教会総会の決議を連想させますが、もちろんパウロ時代にそれはありません。原語は「十分である」「足りている」というほどの意味です。ほどほどの能力があるというより、おそらく機能的に何とかなるというニュアンスでしょう。パウロは自らを、壊れやすい「素焼きの器」と形容しました(2コリ4:7)
さて、新しい契約が「霊」の性格をもつとは、その担い手が肉となった終末論的な共同体であること、私たちが神の究極的な働きが現れる具体的な場であることを意味します。つまり私たちを通して命とつながりが創り出されること、別の言葉で言えば「罪の赦し」が実現することです。
では、「文字は殺す」とはどういう意味でしょうか。ふつうは旧約聖書には禁令がたくさんあり、それを破った者には死刑宣告が下るという意味に理解されます。他方で、先のエレミヤ書には、イスラエルの先祖たちは「私が彼らの主人であったにもかかわらず、彼らは私の契約を破ってしまった」とありました。ならば「文字」とは、「石」に「書かれたもの」という意味、つまり書かれているだけで、それに聞き従う力を与えない場合、それは結果として破棄を、神との関係の断絶としての死をもたらす、という意味に理解できるでしょう。
IV
古い契約と新しい契約の対比は、さらに出エジプト記34章が伝える、モーセの顔覆いのエピソードによって説明されます。――とても難しい箇所なので、こうだろうと私に思われる、その要点のみお話しします。
元ネタのエピソードはこうです。モーセはシナイ山上でただ一人、神ヤハウェと顔と顔を合わせて語り合う存在でした。彼が二枚の掟の板をもって民のもとに下山したとき、神の栄光が映ったのか、彼の「顔の肌が光を放って」いました。それをイスラエルの人々が恐れたので、モーセは神の言葉を伝えた後、顔に覆いをかけました。そして再び神の前に出るときは覆いを外し、民のもとに戻るとまたつけたのです。
このエピソードを用いるパウロの発言の第一の特徴は、このモーセの栄光が、キリストを通して現れた圧倒的な栄光のゆえに、栄光であり続けつつも同時に無効化されたと見なされることです。モーセの栄光は「死の、石に刻まれた奉仕」(7節)、「断罪の奉仕」(9節)、「無効化されるもの」(11節――新共同訳「消え去るべきもの」)と、これに対してキリストの栄光は「霊の奉仕」(7節)、「義の奉仕」(9節)、また「留まるもの」(11節――同訳「永続するもの」)と対比的に形容されます。
この対比的な評価は、先に見たように、たんに〈書かれたもの〉として理論的に要請される神の民の理想形と、神の力を通してじっさいに〈体現された〉共同体の差異に関係するでしょう。〈罪や悪はあってはならない〉という要請と、〈罪は告白されて赦され、悪は克服された〉という現実の間の落差です。
第二に、出エジプト記のモーセが顔覆いをつけたのは、彼の顔が反射する神の栄光を、民が恐がったからでした。新共同訳(その他)は「消え去るべきものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして」と訳します。自分の栄光が徐々にフェイドアウトするがばれないために、という意味ですね。しかしながら、〈しだいに色褪せる栄光〉というモティーフは出エジプト記にも、パウロにもありません。原文を私なりに直訳すると、「イスラエルの息子たちが無効化されるものの終わり(/完成)に見入ることのないため」です。この部分を、例えば〈殺してはならない〉というモーセの栄光は、現代の大量殺戮という現実の前にあっても色褪せてはならず、じっさい色褪せません。しかし、私たちの救いのために殺され、新しい命へと起こされたキリストの存在は、モーセの栄光を凌駕します。
「イスラエルの息子たちが無効化されるものの終わり(/完成)に見入ることのないため」とは、じっさいにはイエス・キリストがパウロに与える奉仕に溢れ出る栄光を、同時代のイスラエルが、また彼の論敵たちが承認しないことについての、パウロの判断でしょう。
そして第三に、パウロは「大いなる大胆さ」を用いて、自分たちはもはや顔覆いをしないと言います(13節)。「主へと転じる度に、覆いは取り払われる」(16節)は、出エジプト記の「モーセは、主の前に行って主と語るときは、出て来るときまで覆いを外していた」(出34:34)の言い直しです。ただし、かつてのモーセの話ではなく、いつでも誰にでも生じることに変えられています。「主」は霊的な存在、つまり私たちに働きかける神の力であり、そこには「自由」があります。顔覆いなしの私たちは、「鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造り変えられる」(18節――新共同訳)。難しい表現ですが、霊なる主キリストに方向定位する者は、キリストの栄光を受けて新しい人間へと変貌し、繰り返し聖書を新しく読むことで自らを新しく理解しつつ、神から託された平和の務めをたしかに果たすことができる、という意味に受けとりたいと思います。