ゼファニア書1:2-11;マルコによる福音書13:32-37
I
世界の終わり、「終末」という言葉を聞いて、皆さんは何を思い浮かべるでしょうか。核戦争とか宇宙人の襲来などによって、人類が滅びてしまうというSF映画のようなイメージが、私にはまず思い浮かびます。
聖書にも、それに似たイマジネーションはあります。今日の私たちのテクストの直前に、以下のようにある通りです。
- それらの日には、このような苦難の後/太陽は暗くなり/月は光を放たず/星は天から落ち/天の諸力は揺り動かされる。(マコ13:24-25、協会共同訳)
これは、まさに世界が壊れるというイメージなのですが、その後に起こることの方が肝心であると考えられています。すなわち、
- その時、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。その時、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、選ばれた者を四方から呼び集める。(マコ13:26-27)
「選ばれた者を呼び集める」とは神による救済をさします。イエス時代のユダヤ教の終末思想は非常に多様でした。義人だけが復活して祝福に入るという表象と並んで、異邦人を含む人類の万人が起こされて、神の審判を受けるという理解もありました。イエスも、どうやら後者の線に沿って理解していたようです。
「死者の復活」と聞くと、私たちには、ゾンビが出てきて歩きまわるというホラー映画のイメージが浮かぶかもしれません。しかし当時のユダヤ教で、死者たちが神によって起こされるとは、どんなに小さな者の痛みや死も、神の前で忘れ去られることは決してない、という希望を意味しました。「神はイエスを死者たちの中から起こした」(ロマ10:9参照)という原始キリスト教の復活告白にも、同じ意味合いが込められています。
終末の教えとは、無視や忘却に抵抗する希望の教えなのです。
Ⅱ
そのような世界の終わりに、「人の子」と呼ばれる存在が到来し、救いと滅びを区別します。しかし、そのときがいつなのかは、御使いたちも知りません。なのでイエスは、弟子たちに向かって「気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつであるか、あなたがたは知らないからである」と教え(33節)、次のような譬えを語ります。
- それはちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに責任を与えてそれぞれに仕事を託し、門番には目を覚ましているようにと、言いつけるようなものである。(34節)
この譬えは、一連の〈奴隷の譬え〉と呼ばれるものに属します。その基本文法は、時間と評価の図式の組み合わせから成ります。時間図式の方は、主人の〈旅立ち―不在―帰宅〉というステップが、奴隷の側の〈委託―遂行―評価〉とワンセットにされます。評価については、主人から委託された任務を、彼の不在時に奴隷がよく果たしたことが帰宅時に判明すれば、奴隷は褒められ、逆の場合には主人から罰を受けるというものです。この図式は、イエスの他の譬えやラビの譬えにも出ます。文化的に、広く共有されていたのでしょう。
さて、私たちのテクストの場合、とてもイエスらしい個性があります。それは、主人の突然の帰宅というモティーフです。
- だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴く頃か、明け方か、あなたがたには分からないからである。主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。(35-36節)
終末到来の突然さというモティーフは、並行して伝えられたイエスの言葉では、面白いことに「泥棒」という奇抜なイメージを通して強化されます。
- このことをわきまえていなさい。家の主人は、盗人がいつやって来るかを知っていたら、みすみす自分の家に忍び込ませたりはしないだろう。(ルカ12:39並行)
泥棒のイメージは、パウロ書簡でも使われています。
- きょうだいたち、その時と時期がいつなのかは、あなたがたに書く必要はありません。主の日は、盗人が夜来るように来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。(Iテサ5:1-2)
おそらくイエスの発言から影響されているのでしょう。
この独特な演出は、主人の不在時間、つまり奴隷にとっての自由な猶予期間という発想が、もはや通用しないことを意味します。これが、〈奴隷の譬え〉の伝統的な基礎文法に、イエスが加えた独特のアレンジです。
III
〈奴隷の譬え〉の基本図式は、私たちにも親しい時間理解を思い起こさせます――肝心な時は未来に到来する。今はそのための準備期間である。時間の猶予があるうちに、遅すぎることになる前に、しっかり準備しておかねばならない。宿題や原稿提出の〆切、1年に一回しかない入学試験という社会の仕組みなど、あるいは「敵が攻めてくる前に」という軍備増強の議論も、それと似ています。
その場合、「目を覚ましていなさい」とは、今のうちにしっかり準備しなさい、という意味になるでしょう。
しかし、主人不在の自由な準備期間という発想が実質的に無化されることが、イエスに固有の演出であるなら、どう考えればよいでしょうか。ひとつの可能性は、現在の時を「未だ到来していない決定的な未来に先立つ猶予期間」と見なすのを止めて、むしろ現在を「未来に直面した時」と理解する、あるいは現在を未来に統合された時と理解することでしょう。
興味深いのは、イエスの「神の王国」宣教では、じつは過去もちゃんと回収されて、未来から現在に向けて到来することです。
- 東から西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと一緒に宴会の席に着く。(マタ8:11並行)
アブラハムその他の伝説的な族長たちは、今や来たらんとする「神の王国」の宴のメインホストたちです。本日のテクストの直前には、雲に乗ってやってくる人の子が「天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、選ばれた者を四方から呼び集める」とありました(マコ13:27)。「呼び集める」のは、神の王国の宴に人々を招くためです。アブラハムたちは、遠い過去の人々であるにもかかわらず、すでに復活を遂げて、死を知らない天使たちのようになっており、そのような者たちとして、人の子とともに到来して人々を「神の王国」の宴に招くのです。
IV
このような話は、古代人の神話的な世界像をもはや共有していない私たちには、なかなか理解しにくいです。
それでも、「目を覚ましていなさい」という勧めを、イエスの発言の趣旨になるべく沿いつつ、〈自分だけは失敗しないよう周到に準備する〉というのとは別の仕方で、理解することを試みましょう。すなわち、今の時のクォリティー見分けなさい、そして何が過ぎ去るべき過去に属する一方で、何が未来に属するかを区別しなさいという意味に。
そのための手がかりとして、ある本で再び出会った、大城正子さん(1930-2022年)という方が書いた文章を紹介します。彼女は琉球からペルーに移民した日本人男性と、ペルーの山岳民族出身のお母さんとの間に生まれた、日系ペルー人です。少女時代に、第二次世界大戦で日本が敵国になったために日本語を習得する機会を失い、さまざまな差別を経験し、1990年代、74歳のとき移住労働者として来日している親族を助けるために川崎に来ました。そして川崎ふれあい館の「トラヂの会」という在日コリアン1世の交流会に、またウリマダン(私たちの広場)という識字学級に参加し、在日コリアンの人たちの友人になったのです。
そして、一生懸命に習った日本語で、「戦争のころのこと」という文章を書きました。
- 日本人の学校がなくなったのでペルー人の学校にいったら、「チーノ(目が小い〔ママ〕ことをからかうことば)」「ここはおまえの国の学校じゃない」といわれた。はたけをとられてお父さんが人のはたけではたらいていたら畑の中をとおる人がいてお父さんは「そこはみちじゃないよ」と言ったら「ここはお前の国じゃない。どこでもみちだ」と言われた。「あなたの国にいきなさい」と、戦争がおわってから、「日本はまけたのだからかえれ」といつも言われました。そのときさみしかった。トラヂ会やウリマダンの友だちが「ちょうせんにかえれ」「しね! ころしてやる!」といわれたらどんなにかなしいか、私はよく分かります。
- 2016年6月15日
(風巻浩・金迅野『ヘイトをのりこえる教室――ともに生きるためのレッスン』大月書店、2023年、222-223頁より)
私たちの教会員であるM・Wさんが、この識字教室で長年ボランティアをされました。私がこの詩を最初に教わったのは、彼女からであったかもしれません。
大城さんはご自身の経験に基づく「痛みのセンサー」(上掲書、229頁以下を参照)のようなものを発揮して、自分とは異なる人生を歩んできた人たちの苦しみと出会うことで、私たちの未来をも指し示します。
どんなに小さな者の痛みや死も神の前で忘れ去られることはないのが、イエスの信じた世界の終わり、神の審判でした。そしてイエスは、現在と未来の間に、隙間などないというイマジネーションの持ち主でした。ならば、昨年天に召された大城さんは、再臨のイエスに導かれて、アブラハム、イサク、ヤコブとともに天使たちの一人となってこの世界に到来し、「神の王国」の宴へと私たちをも呼び集めてくださる。すでに今ここでも、そうしておられるのではないでしょうか。
そのようにイメージするとき、私たちが今の時代のクォリティーを識別し、目を覚まして何が真の平和をもたらものであるかを見分けるためのトレーニングをしなければならないのは、当然のことだと思います。