エレミヤ書31:31-34 ; ローマの信徒への手紙5:1-5
聖霊降臨日第7主日、皆さんと共に礼拝を捧げる恵みを感謝いたします。ペンテコステは、聖霊によって私たちの心に愛が注がれた日です。この愛によって、私たちは心のうちに平和を知ります。聖霊とは神の力と励ましです。風のように吹いてくる聖霊は人間がコントロールできるものではなく、その吹き抜けてゆく勢いを受けた者は、天から「愛」という贈り物を与えられます。これは人間が自ら作り上げるような愛ではなく、神様との関係から生まれるものです。神様に愛されているがゆえに、私たちは聖霊の勢いに押し出されてその愛を周りに示す歩みへと招かれます。
一方、現代社会はというとまるでその真逆をひた走りしています。愛どころか、ヘイト、偽り、暴力、排他主義、絶対主義が横行しています。これまで国際社会が積み上げてきた世界秩序や信頼関係、または多様性に対する寛容な考え方が根底から揺さぶられているように見えます。私の国アメリカでは民主主義そのものが内側から脅かされています。皆さんはChristian Democracy(キリスト教民主主義)という言葉を聞いたことがあるでしょうか?ここで「クリスチャン」という言葉は排他的な意味を持ちます。提唱者はハンガリーのビクトル・オルバン首相です。彼は、もともとハンガリーがキリスト教国だという理由で、キリスト教を軸とした民主主義でなければいけないと考えます。2010年に首相になってからオルバンの下でハンガリーの民主主義は壊され、独裁国家が誕生しました。オルバンは反移民政策、LGBTQの違法化、そして最近では欧州人以外の人との混血に否定的な発言をしています。オルバンの政治姿勢はロシアや、アメリカのトランプ支持者から高い評価を受けています。先月、ロシア正教会のトップ、キリル1世総主教からオルバンは表彰されました。また、アメリカの共和党はわざわざハンガリーまで出かけて行ってその党大会を開きました。昔から白人至上主義と「キリスト教」は深く結びついてきました。キリスト教という看板を用いて、排除と差別を武器に、民主主義の否定、権力の独占、そして人権侵害を平然と行ってきました。この動きは注視すべきであり、私たちは、これが聖書の教える神様の愛に反するということを、声を大にして示して行く必要があります。
本日はローマ書5章から4つの言葉を中心に見て行きます。一つ目は、1節にあるように、神様によって与えられている「平和」です。これがローマ書5章の出発点であり、前提となっています。二つ目は2節から読み取れるように、私たちは神様との特別な関係に招き入れられています。ここで注目したい言葉は「恵み」です。三つ目は、3節に見る「忍耐」という言葉です。神様の愛を受けて、私たちは忍耐する力を得ます。その忍耐こそが希望に向かって歩む私たちの励みであり、自らの信仰が試される現場です。そして最後は5節に見る「聖霊」という言葉です。「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれている」という確信です。
1節.「私たちは信仰によって義とされたのだから、主イエス・キリストによって神との間に平和を得ている」。いきなりですが、皆さんは「尊敬」と「尊厳」の違いを考えたことがあるでしょうか?この二つの言葉はよく関連して使われますが、その間には決定的な違いがあります。「尊敬」というのは、その人の生き方・能力・業績など、生涯を通してその人が成したことによってついて来るものです。例えば、大谷翔平などは多くの野球ファンの尊敬を集めています。しかし、尊厳は全く違います。私たちが生まれてくるだけで持っているものです。その人の能力や実績とは関係ありません。創世記1章に「神は人を創造された。神にかたどって創造された」とあります。ここに人間の尊厳性の根拠があります。命の尊さやその人らしさが神様の創造によるものだということです。そして、誰もあなたの尊厳を奪い取ることはできないのです。ローマ書5:1でパウロが「わたしたちは信仰によって認められたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており」というとき、この平和とは、人と比較することなく、ただ、自分が神様によって認められ、欠点も含めて、愛されていることではないでしょうか?神様が私の「価値とその弱さを」大きな愛で包み混んでくださいます。もう自分を人と比較して考える必要はありません。神様はあなたをあなたとして見ている。この神様との間にある「平和」は、いつでも私たちが立ち返ることのできる信仰の土台です。
2節.「キリストのおかげで恵みによって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りとする。」 恵みによって私たちは信仰の道に導かれています。ある日電車に乗っていましたら、目の前に体格の良い青年が大きなスポーツ系リュックを背負って立っていました。片方の手は手すりにかけ、もう一つの手でスマホを見ていました。彼の後ろには小さな高齢のご婦人が同じように、青年に背を向けて、手すりに手をかけて立っていました。電車が揺れると青年のリュックは婦人の背中にぶつかり、婦人は飛び上がってびっくりしていました。これが3回ほど続いたので私は青年に注意してリュックを降ろすように言いました。これは都心でよく見る光景かも知れません。リュックは青年の盲点です。別に婦人に対して悪気はありません。ただ、盲点なので、青年には自分のしていることが分かりません。そして、分からないうちに人に迷惑をかけています。私たちはみな盲点を背負って生きています。自分の意志とは関係なく、生きているだけで私たちは人に迷惑をかけます。そして、誰かにそのことを言ってもらわないと分からないのです。どんなに立派な人であっても、無意識の内に人は人を傷つけています。このようなことを考えながら改めてイザヤ書53章の言葉を読むと、新たな味わいがあります。「彼が貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、私たちの咎のためであった。」咎とは「罪」、または咎めるべき点です。私たちは絶えず「咎」をリュックのように背負って生きているのかも知れません。しかし、神様はそれでも私たちをご自分との関係に招き入れます。そういう意味で、神様との関係は恵みに他なりません。自分が人を傷つけてしまう存在であるにも関わらず、神は恵みとして私たちを招きます。そしてパウロが言うように、神の恵みによって招き入れられた私たちは「神の栄光にあずかる希望」に向かって歩むことができます。
3節.「そればかりか、苦難を誇りとします。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む。」
ある日、いつものジョッキング・コースを走っていましたら小さなお墓に目が留まりました。板状の墓石の中央は十字架の形に繰り抜かれています。注意して見ると墓石に次の言葉がありました。「異なるものが互いに愛し合って一つになる」(札幌キリスト教召団)。とても力強い言葉のように感じました。さらに注意して見ると、高塚家のお墓は亨保16年(1731年)までさかのぼるものでした。約300年前から続くお墓です。この言葉を墓石に刻んだ人はどんな人だったんだろうか?生前、どんな生き方をして、どんな葛藤や失敗があって、また、どんな真実にたどり着く瞬間があったのだろうか?「一つになる」と言い切っていますが、この言葉どおりにできたのか?それとも、神様の力を求める祈りのような言葉なのか?この言葉ほど、神様の愛の方向性を言い当てているものはありません。考えてみると、結婚も、信仰生活も、社会の人間関係もみな、異なる者がいかに相手を受容し、尊重し、一つになれるか、これはこの地球上に住む私たちの大きな課題であります。民族、階級、思想、ジェンダー、障がいの有無、人間の性に対する多様な考え方の違いを超えて「一つになる」のです。「異なる者」を理解し、また「異なる者」に理解される営みを「苦難」と一言で言い表すことができます。簡単なことではありません。このことを一番よく知っていたのはパウロだったでしょう。パウロはしかし、確信を持って当時のキリスト者に伝えています。大丈夫。キリスト者はすでにこの苦難に向かって忍耐する力が与えられています。まず、神様との間に平和を得ており、(パウロは、「あらゆる人知を超える神の平和」(ピリピ4:7)と表現します)、そして自分の咎にも関わらず恵みによって神様は私を活かしてくださるのです。神様の平和と恵みによって忍耐する力はすでに信仰者のために神様が用意して下さっているのです。忍耐することは神様の恵みに対する私たちの応答であり、忍耐の先には希望があるのです。
民主主義社会の目指すところは、異なる者同士がお互いを尊重し、理解し、お互いを高め合う社会です。その社会は信頼によって成り立ちます。人を排除することも差別することもなく、人を大切に扱う社会は手の届かない、単なる理想でしょうか?それとも、神様のみ言葉に接している私たちこそが、忍耐しつつ、指し示す希望なのでしょうか?
アメリカで民主主義の取り壊しにあたる人たちは、社会に対する信頼を崩すために攻撃の的を4つに絞りました:(1)政府、(2)メディア、(3)大学、そして(4)科学です。彼らの主張としてはこの4つが、アメリカの一般市民を欺いているとして、その信頼性を攻撃しました。その作戦とは、混乱と分断を生じさせることです。(この考え方は、もともとワグネル民間軍事会社創設者のプリゴジン氏が生み出したpolitical technologyの手法)例えば、SNSでニセ情報を拡散させて国民をわざと混乱させ何が本当のことか分からなくする。または、政府の民主的プロセスを妨害したり、公的機関を機能不全に陥らせたりする作戦です。トランプ元大統領はその在籍中に多くのダメージをもたらしました。彼がパンデミックの間マスクを拒んだのも、コロナ対策専門家への不信感をあおる作戦でした。分断と混乱こそ、独裁者が最も好む政治的環境であると言えます。
民主主義・平和・人権の尊重を願う者にとって忍耐はつきものです。神様は、忍耐の道を歩み出す私たちに助け手として聖霊を与えてくれます。「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれている」とパウロは言います。神様の愛を受けて、苦難と忍耐、練達、そして希望へと導かれたいと思います。