「イエスの驚き」マタイ8:5-13 中村吉基

ダニエル書6:10-23;マタイによる福音書8:5-13

今日の箇所、10節に「イエスはこれを聞いて感心し」と記されています。
ここを新改訳聖書では「イエスはこれを聞いて、驚かれ」と訳しています。
神の子である主イエスでも驚くことがあるのかと思った方もいるかもしれません。ではいったい主イエスは何に驚かれたのでしょうか。主イエスが驚く場面はほかにもあります。たとえばマルコ6章6節では故郷で主イエスを受け入れなかった人々に対し、主イエスがその「不信仰に驚かれた」とあります。しかし今日の箇所では違っています。不信仰ではありません。百人隊長の信仰に「驚かれ」「感心」された主イエスでした。主イエスが驚いたらどんな顔つきをなさるのでしょうか。

もう10年近く前のことですが、イタリアのオーディション番組に出演された25歳のクリスティーナ・スクッチャさんという方がおられました。彼女はカトリックの修道女で、黒の修道服と十字架のペンダントをつけ、修道女が歌いそうにもないアリシア・キーズの「ノー・ワン(No One)」というポップスを歌いました。観客からは大きな歓声が起きて、審査員4人は信じられないといった表情を見せたそうです。

シスター・スクッチャさんは、「神から与えられた才能があるからここに来ました。その才能を分かち合えればと思って」と述べました。審査員の1人に著名なラップ歌手がいたそうですが、「感動して涙が出た」と語った。シスター・スクッチャさんは、修道院から「外に出て」神のみ言葉を広めなさい、と言ったフランシスコ教皇に触発されて番組に出場することにしたそうです。

別の審査員が、ヴァチカンの教皇庁は彼女がオーディション番組に出たことをどう思うだろうかと尋ねると、スクッチャさんは「教皇さまからの電話を待っています!」とジョークで返したそうですが。私たち人間というのは、見た目で判断したり、最初から上から目線で、先入観をもって、決めつけているようなところがあります。よくこういう市井の方々というか、いわゆる素人がオーディション番組に出た時に、予想だにしなかったことが起きて、審査員の驚きの表情を映像で見ることがあります。何かありえないこと、自分の予想をはるかに超えたところに人は驚きます。

しかし、主イエスが驚いた顔を一度見てみたいものです。そして私たちも主イエスに驚かれ、感心されるような者になりたいと思うのです。皆さんはそうすることができます。主イエスに感動されるような信仰者になることができます。それは私たちの努力ではなく、神が与えてくださる信仰によって、神に委ねて歩むときに、皆さんは驚くべき信仰を持つことができます。

今日の箇所には、「百人隊長」という人が出てきます。名前は分かりません。では「百人隊長」とはいったいどんな人なのでしょうか。
主イエスが活動された時代、ユダヤ人(イスラエル)は大国ローマ帝国に支配されていて、主イエスがいたガリラヤという地方にもローマ軍の兵士たちが駐留していました。そのローマ軍の基本ユニットは100人の歩兵でした。その100人を束ねて指揮するのが百人隊長(ケントゥリオ)でした。
では主イエスはこの百人隊長の何に驚かれたのでしょうか。
4つの点に注目をしてみましょう。

まず、主イエスは百人隊長の「信仰」に驚かれました。5〜9節を読んでみましょう。

さて、イエスがカファルナウムに入られると、一人の百人隊長が近づいて来て懇願し、「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」と言った。そこでイエスは、「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われた。すると、百人隊長は答えた。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」

ひじょうにこの百人隊長の謙遜さ、そして主イエスの権威、すなわち神のひとり子であることを信じているところに、主イエスは驚かれたのです。このマタイによる福音書は、ユダヤ人伝道を念頭において執筆されましたが、ユダヤ人(イスラエル)はひじょうに選民意識が強かったわけです。「自分たちこそ」「自分たちだけが」救われると信じきっていたわけですが、マタイはそうではなくて、この百人隊長のことを福音書に書き記して伝えたのには、ユダヤ人だからといって自動的に神が救ってくださるわけではない、主イエスを救い主と信じる信仰によって人間は救われるということを今日の箇所は伝えているのです。それを裏付ける主イエスの重要なみ言葉があります。10節です。

イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。

そして主イエスが驚かれた、2つ目のことです。
それは百人隊長が、異邦人(外国人)であることです。ユダヤ人(イスラエル)は本物の神を知らない外国人は穢れた存在であると固く信じていましたので、他の神々を信仰するローマ帝国の連中などはもってのほかだと思っていました。しかし、外国人であっても同じ神を信じる人にはユダヤ人たちは寛容でした。百人隊長は外国人でしたが真の神を信じている人でした。8節で「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません」と言っていますが、これは外国人の私のもとに主イエスに来ていただくなんて畏れ多いということなのです。真の神を信じていればユダヤ人(イスラエル)になることも可能でした。ここ何年か前に日本人でユダヤ人(ユダヤ教への改宗・帰依)になった方もおられます。主イエスはこの素晴らしい信仰者が外国人であったことに、驚きを隠せず、それは喜びを伴った驚きであったでしょう。

主イエスが驚かれた、3つ目のことです。
それはこの人物がローマ帝国の百人隊長という権威ある人物であったからです。
そのような地位の高い人物が自分のしもべをいやしてくださいと懇願してきたことにイエスは驚かれたのです。

そして4つ目のことです。
この百人隊長は自分のしもべを心から愛していました。
この時代の歩兵というのは百人隊長からすれば、人間扱いされずに道具の一つのように思われていたにもかかわらず、この百人隊長はしもべが主イエスによっていやされることを切実に願っています。「懇願した」と記されています。百人隊長はしもべを愛しています。主イエスの「一匹の羊」の譬え話を彷彿とさせます。たとえ99匹をおいても、迷ってしまった1匹を探しだすという神の視線、この百人隊長は同じまなざしを持っています。どうしてしもべが中風(脳血管障害の後遺症である半身不随、言語障害、 手足のしびれやまひと現代では考えられている)になったかについては記されておりませんが、もしかしたら歩兵としての職務上の何かが原因になったかもしれません。彼は責任を感じていたのかもしれません。

今4つの点から主イエスの「驚き」について見ていきましたが、この物語は百人隊長が自分のしもべの病気をいやしてほしい、という一心から始まっています。百人隊長という地位の高い、権威あるものがへりくだって主イエスに懇願する姿は、フィリピの信徒への手紙2章6〜8節を彷彿とさせます。

キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。

神でありながら、それを捨てて、仕えられる者から仕える者へと変わられて、人間の世界のただ中に、まさにキリストは私たちのただ中にやって来られました。

私たちが、主イエスを驚かせるような者になるというのは、いったいどのような時でしょうか。主が本当に心の底から驚かれるのは、彼がお示しになった自分中心ではなく、すべてを人間に与える心、そしていのちまでも差し出された十字架の心が、私たちの心と一致するときに私たちは主イエスに驚かれるような者に変えられて行くのです。