ネヘミヤ記2:1-18;ヨハネによる福音書11:17-27
マルタとマリアの話は聖書にたびたび出てきますので、皆さんもご存じでしょう。エルサレム近郊にあるベタニアという小さな村に、マルタとマリアという姉妹が住んでいました。ルカ福音書の10章には、主イエスの一行がこの姉妹の家に立ち寄ったことが記されてあります。イエスご一行の世話のために忙しく働く姉のマルタと主イエスのそばを片時も離れずに熱心に話に耳を傾けていたマリアのエピソードです。また、ヨハネ福音書にはファリサイ派のシモンという人の家に主イエスが食事に招かれ、ある女性が突然その家に入ってきて、居合わせた人々の非難の目を気にもしないで、イエスの足元にひれ伏し、涙を流して自分の髪の毛でイエスの足を拭いたことが記されてありますが、この女性こそマリアだったのでした。
今日の箇所は11章からです。本日は17節から27節まで聴きましたが、11章1〜44節まで続いていますからお手元の聖書を開けておいていただければと思います。
11章の1節以下には主イエスが、この姉妹を大切な友人として交わりがあったことが窺えます。彼女たちの家にもしばしば立ち寄られたのでしょう。そしてマルタもマリアも、イエスをまことの救い主と信じ、歓迎したことでしょう。ゆえに主イエスとこの姉妹との間には、とても深い信頼がありました。そして、この姉妹にとって主イエスは生きる力そのものでした。11章の冒頭には、この姉妹にラザロという兄弟がいたことを記していますが、11章5節に「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」とも記されてあります。しかし、ラザロが病気になり、それはいのちに関わるような重い病気でした。マルタとマリアとは主イエスにラザロの病のことを伝えますが、主イエスはついこの間もその付近で敵対者たちからいのちを狙われた場所でした。にもかかわらず、主イエスは道をベタニアに引き返しましたが、間に合うことなく、ラザロは死んでしまったのです。
今日の箇所にはその後のことが記されてあります。
「イエスが行ってご覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた」と記してあります(17)。マルタとマリアは、ラザロを亡くして喪失感でいっぱいでした。マルタは、主イエスが来られたことを聞いて、迎えに出て思い余ってこう言ったのです。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知していますから」。そして何とこの時、家にいたマリアも、後から家に来た主イエスの姿を見るなり同じことを語っています。これは、この姉妹の心の底の底からの深い悲しみ、やり場のない後悔の言葉だったのです。
身近な人を亡くすと悲しみだけではなく、後悔にも包まれることが多いものです。家族としてもっと早く病気に気付いてやれなかったのか、もっといい医療を備えた病院に連れて行けば良かったとか、もっと死に往く人の言葉に耳を傾けてあげるべきではなかったか、とかさまざまなことが次から次へと心に湧いてくるのです。クリスチャンであるならば、「なぜもっと祈らなかったのだろう」とか反対に「神さまはどうして私の祈りを聴いてくださらなかったのだろう」とかまだまだ元気でいてほしかった人を失うことは、深い苦しみや辛さを覚えることですし、泣きはらしながら日々を過ごすことでしょう。
この悲しみと後悔にどんよりと包まれていた姉妹のもとに主イエスは来られました。そして、この後主イエスも涙を流されたというのです(11:35)。主イエスが泣かれたという出来事は聖書の中では、この箇所だけ見られるものです。ですからそれがどんなに深い思いであったか、はらわたがよじれるばかりの共感であったことが読み取れるのです。そしてそれはまた、もし皆さんが悲しみや後悔の涙を流す時に、その同じ悲しみの分だけ主イエスも一緒になって涙を流してくださるのです。
「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」。
今日はこの言葉に注目したいと思うのです。
私たちもこういう言葉を神さまに、あるいは人に、はたまた自分自身に投げかけていないでしょうか。「後悔先に立たず」と言います。終わってしまったことは、あとになって悔んでも取り返しがつかないのです。にもかかわらず、私たちはいつも失敗してしまったり、壁にぶつかったり、取り返しがつかなくなってからもずっと、心の中に後悔を抱えていないでしょうか。たしかに反省をすることは必要です。けれどもそれ以上にいつまでもくよくよしていたのでは新しいスタートを切ることができません。
実はマルタとマリアがこう言ったのには理由があるのです。
11章6節に主イエスが「ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された」ことを知っていたからです。主イエスは、なぜすぐに駆けつけてくれなかった、使いの人をやってラザロが重篤であることを伝えたというのに、なぜ主イエスはすぐに駆けつけてくださらなかったのですか、という思いが込められていたのです。主イエスが到着されたのはラザロが葬られて4日も経ってからのことでした。
この悲しみの中で、主イエスはラザロが葬られている墓へ行かれました。今日の箇所にはその墓が石でふさがれていたとか、死後4日もたっていために死臭がしているとか、遺体が布で巻かれていた、と具体的な状況を記して、この悲しみと後悔が、もはやどうにもならないことを伝えています。
けれども主イエスは、その墓の前に立って大声で、「ラザロよ、出て来なさい」(11:30)と言われたのでした。こうしてラザロは復活しましたが、今日の物語ではラザロも、マルタもマリアも何もしていません。しかし、この復活は、マルタとマリアの信仰によって起こった出来事と言って良いでしょう。マルタは、主イエスが「わたしは復活であり、命である。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」と言われた時、「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」と答え、マリアは、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と聞いた時、すぐに立ち上がって主イエスのところへ行ってひれ伏したのでした。
けれどもマルタとマリアは、ラザロが復活することを信じていなかったといえます。なぜならマルタの答え方は「今ここで」ラザロが復活することを想定していなかったと読めますし、マリアが墓の前で「もうにおいますから」と語ったこと、あるいは悲しみの涙に暮れていた姿からわかります。しかし、彼女たちは、主イエスを信じていました。主イエスが救い主であることを信じてやみませんでした。この信仰が、悲しみや絶望から彼らを救い出したのです。「出て来なさい」この主イエスの言葉は私たちにも呼びかけられています。
私たちが後悔の念で心がいっぱいになってしまう時、「主よ、もしここにいてくださいましたら……」と嘆く時、私たちはそこから救い出してくださる神さまの力を信じているでしょうか。厳しい言い方をすれば、神さまの力を信じていないから、いつまでも、いつまでも後悔しつづけているのではないでしょうか。私たちは心の中で後悔し続けるのは心身を蝕むだけでなく、神さまを悲しませているのです。今日も大きな手をいっぱいに広げて神さまは私たちがみ腕の中に帰ってくることを待ち望まれています。
私たちの人生にはたくさんの悲劇や失敗や労苦があります。悲しいことに人生というのはそういうものに満ちています。でも皆さん、パチンコの台を見たことがあるでしょう。玉はすぐにゴールに行きません。たくさんの障害物にぶつかりながら、玉は一つ一つ違う経験をしながらゴールに行くのです。これは私たちと同じです。釘にぶつかり、少し速度を緩めながらいろいろな動きをして(経験をして)目標に向かっていくのです。何か壁にぶつかったらそれはみなさんに新しい扉が開かれる瞬間です。下を向いていてはもったいないのです。後ろを向いていても無駄なことだらけです。主イエスはそのような「墓」からすぐにでも「出てきなさい」と呼び続けておられます。今日の箇所の25節のところで、主イエスは「わたしは復活であり、命である。わたしを信じるものは死んでも生きる」とあります。これは私たちの後悔の先にある「希望」の言葉です。キリストは私たちに希望を備えていてくださるのです。私たちも上を向いて立ち上がりましょう。キリストを見つめて歩き始めましょう。27節のマルタの言葉です。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」。「わたしは信じております」これは希望に向かって歩み始めた人の言葉です。みなさん一人ひとりが希望に満ちてこの新しい1週間を始めましょう。