イザヤ書61:1-11;ガラテヤの信徒への手紙6:1-10
今日の聖書の箇所で、神さまはご自身を信じるものにそれまで受け続けた不当なことの2倍のものを継がせると約束されています
あなたたちは二倍の恥を受け/嘲りが彼らの分だと言われたから/その地で二倍のものを継ぎ/永遠の喜びを受ける。(イザヤ61:7)。
まず今日の箇所の背景をお話ししましょう。イザヤ書の56~66章は、名前の判らない預言者によるものとされ、通称「第3イザヤ」と呼ばれています。第3イザヤが活動したのは、イスラエルがバビロン捕囚から解放され、エルサレムに戻り、そしてバビロニア軍によって破壊されていた神殿を再建した時のことでした。
第3イザヤは、推定されるにはバビロン捕囚から帰還した者の一人で、エルサレム神殿が再建される時に預言者としての活動を始めました。紀元前539年に、ペルシア王キュロスがバビロニア帝国を倒したとき、50年間捕囚になっていたイスラエルは、解放され、帰還しました。そして民は、エルサレムに帰ったならば、まず神の家としてのエルサレム神殿を再建しようと心に決めました。ところがエルサレムに帰ってみると、その荒廃ぶりは予想以上に激しく、失意にどん底に落とされてしまったのです。かつて人々が住んでいたところ、また崇めていた神殿が見るも無惨に荒廃していたのです。
61章4節には、そのような光景が描かれます。
彼らはとこしえの廃虚を建て直し/古い荒廃の跡を興す。廃虚の町々、代々の荒廃の跡を新しくする。
ようやくイスラエルへ帰ってこられて、エルサレムの神殿を再建することになった矢先に、神殿の再建もできなくなってしまいました。失意や嘆きや絶望のなかで、第3イザヤという預言者は神さまのみ言葉を人々へと取り次ぎました。
今日のご一緒に聴きました61章は第3イザヤがなぜこんな時代に預言者として召されたのかについて記されています。
1節です。「主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人によい知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために」。
第3イザヤは「貧しい人によい知らせを伝えるため」に選ばれました。「よい知らせ」は指導者とか権力者といういわゆる「偉い人」ではなく、弱く小さくされた人たちに伝えられるのです。失意の中、力を失くし、絶望し、嘆いている人に真っ先に伝えられるのです。それだけではありません。「よい知らせ」は、「打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人に自由を/つながれている人には解放を告知」する力を持った「知らせ」です。
今この現実の厳しさに生きている人がたくさんいます、失業し、住むところもなく何もかもうまくいかない人たちが多くいます。私たちが生きる現代社会の問題に置き換えればこういう現実の中で力を失くしている人たちの「心を包む」ということでしょう。そして捕らわれ人には自由を与えてくださる神さまです。
なぜ、第3イザヤは堂々とこのように預言できたのでしょうか。もちろんそれは神さまのみ言葉を誤ることなく伝えていただけにすぎないでしょうが、しかしこの預言者は神さまに「希望」を置いていたのです。希望はすべて神さまから出ずるものだと全幅の信頼を寄せていたからなのです。
さて、このみ言葉をキーワードとして私たちの問題に目を向けて行きましょう。私たちも考えてみれば誰かの策略、謀略、不正によって被害を受けたことがあるでしょう。誰かに騙される、何かを奪われる、同僚に出し抜かれる、友人に裏切られるなどなど……です。心にポッカリ穴が開くことでしょう。茫然とすることでしょう。ガックリ落ち込むこともあるはずです。そうなると次に私たちの心には何がよぎっていくのかと言えば、「仕返しをしてやろう」という気持ちです。報復です。かつての日本の敵討ちではありませんが、そうした行為を当然だとする風潮もあります。
しかし、それは神さまを悲しませる行為です。繰り返して言うようですが、神さまはそんな皆さんに次の新しい扉を用意してくださいます。そして私たちは私たちに不当なことをした人に対して、報復しなくてもいいように、神の正義は決して消えることなく、堂々と直線上を歩むのです。ヘブライ人への手紙10:30には「復讐はわたしのすること、/わたしが報復する」と神が言われていると記されています。つまり、私たち自身の手を下して報復する必要はないのです。神さまは私たちのために正義の判断をくだしてくださるのです。
「正義はかならず勝つ」なんて昔のアクションヒーローの台詞だったでしょうか。その通りなのです。神さまは過ちのあるところに正義をもたらしてくださいます。たとえ私たちが悔しい思いをしていても、名誉を傷つけられていても、その相手と争わなくてもよいのです。争えば争うほど事態は悪くなって行きます。すべてを神さまにお委ねすることがここでは大切です。
神さまは私たちに苦難を与えることがあります。いえ、苦難を経験しない人はいないでしょう。しかし「苦難は幸福の門」(丸山敏雄)だと言った人がいましたが、苦難というのは、ある日突然起こったように見えますけれども、私たちの生活のゆがみから招いていることなのです。病気にしても、貧困にしても、あらゆるストレスも私たちは、自分以外のもののせいにしてしまいますが、そうではなく実は私たちの心の中に原因があるのです。ですから、苦難を経験したときにそこから逃げるのではなく、嫌がるのでもなくきちんとそれに向き合い、生活を改善できる人に神さまは道を備えてくださるのです。
神さまは私たちに苦難を与えて喜んでいるわけではありません。苦難を与え、私たちがそれにどう対処していくのかをご覧になっています。私たちが怒り心頭で、相手に報復することばかりを考えていくのか、はたまたすべてを神さまにお委ねするのかをご覧になっているのです。
もしかしたらこんなことがあるかもしれません。自分は仕事をきちんとやっているのに、それが評価されないどころか、上の人から注意されてしまう。同年代の仲間はどんどん評価されていくのに、自分だけ取り残されているような目に遭っていたとします。こんな時、文句の一つも言いたいのは当然の感情かもしれません。しかし、そんな時でも信仰者は神さまを忘れてはいけないのです。私たちの中に神さまが生きておられるのです。その神さまを悲しませることは避けなければなりません。神さまはすべてお見通しです。私たちが不当な目に遭っているのかをご存知です。そして必ずそこに空いた穴を埋めてくださるのです。
神さまは皆さんを高く評価し、昨日より今日、今日より明日、私たちを上昇させようとされています。そうであれば、周りの人が自分にどんなレッテルを貼ろうと気にすることはないのです。天地万物の創り主である神さまがもう私たちを立てて、認めてくださっているからです。そして長い間、私たちが悪の力によって貶められていることを神さまはよしとはされません。しかし、神さま時間は「一日は千年のようで、千年は一日のようです」(IIペト3:8)と言われるくらいですから、私たちには何か月、何年しても何も変わっていないじゃないか、と思うかもしれません。そのような時、また私たちに悪い心が生じて、報復への欲望にかられることもあるでしょう。しかしそれは神さまのご計画を振り出しに戻してしまうかもしれないのです。
神さまの力は必ず皆さんのもとに実現します。それを辛抱強く待ちましょう。
待降節ははやる気持ちを抑えて待つ期節です。神さまは私たちが期待する以上のものを一人ひとりにもたらしてくださいます。今、苦しい思いをしていてもそれは次へのステップだと信じることです。私たちは悪に手を染めず、正義を行ないましょう。報復を画策する自分の心を聖霊によって打ち砕いていただきましょう。私たちはいつも神さまと人とに感謝の心を表し、愛とゆるしに生きることが求められています。そうすれば必ずや新しい扉は開かれるのです。そして私たちは私たちの手から奪われたもの以上の大きなものを与えられるのです。
待降節は自らの信仰を省みる時です。神さまに自分のすべてを委ねましょう。悪い心が起きたならば、それを神さまに取り除いていただきましょう。私たちの罪や傷が一つ消えると、イエスさまに罪や傷が一つ増えるのです。そうして神さまは私たちの重荷をすべて負ってくださいます。そう信じるならば私たちの気持ちは軽くなり、イライラしたり、不甲斐ない思いをしたり、敗北感を味わうことはなくなるはずです。そして神さまに結ばれて生きていくならばもっともっと早く神さまは新しい扉を開いてくださいます。
ガラテヤの信徒への手紙6:9でパウロはこう言っています。
たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。