エゼキエル書36:24-28;ガラテヤの信徒への手紙5:13-25
神は天地創造の最後に人間をお造りになりました。神にかたどって、神に似せて人を造ったのだと創世記1章は伝えています。その際に神は人間に自由に生きる道を与えてくださいました。ただそれは「放縦」すなわち好き勝手に生きることではありません。コリントの信徒への手紙Ⅱ3:17には「主の霊のおられるところに自由があります」と記されています。それを明らかにしているのが今日のガラテヤの信徒への手紙に示されています。パウロは霊(聖霊)に導かれて生きることこそが自由に生きることなのだと言います。
パウロは14節、「律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです。」と言っています。彼はローマの信徒への手紙においても「人を愛するものは律法を全うしているのです」(13:8)と強く信じていました。律法全体とはモーセがシナイ山で神から授かった十戒をはじめとする律法を指します。「隣人を自分のように愛しなさい」という一つの言葉で全うされる(実現する)のだというのです。「愛する」ということは相手に悪を行うのではなく、「善」を行うことです。全うするという言葉はうわべだけでするのではありません。「自分のように愛する」とは相手のことを自分の一部のように思い、喜びも悲しみも共有するだけでなく、主イエスも言っておられるように、マルコ12:30で言っておられるように、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして」私たちの目の前にいる相手を愛するということです。
しかし、ここにはその真逆のことも描かれるのです。
「互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい」(16節)。「噛み合い、喰い合う」(青野訳)とは自分のように愛することとは正反対のことです。自分の欲望のため、また自分の利益のため、してのことはお構いなしという状況です。こうなると人間関係は破綻します。
だからパウロはあえて言うのです。「だから私は言います」というように宣言するのです。
霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。(16節)
霊とは先ほども申しましたように、聖霊なる神のことです。聖霊が与えてくださる「実」を用いて生きることであり、この16節の後半では「そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません」とある通りなのです。つまり、私たちが肉の欲望から解放されるためには、聖霊に満たされて、キリストに示された造り主である神と共に歩むまで進まねばならない、ということです。
17節のところからです。「肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません」。
「肉は霊に反して欲し、霊は肉に反して〔欲する〕からである」「肉は霊に反してむさぼり」と訳している聖書があります。人間はさまざまなものが欲しくなる。欲しくなるだけではない。どうしようにもないほど強く欲することもある。神によって造られた最初の人間はこの欲すること、むさぼることを抑えられずにエデンの園の中央の木の果実を食べてしまいました。また十戒の結びに、「隣人のものを一切欲してはならない」とも書かれてあります。
私たちにもこの性質があります。それをどうすることもできない、抑えることができない、どうしようにもない。それが人間です。私たちの内面で、絶えず肉と霊の闘いが繰り広げられているといっていいかもしれません。
ですからパウロは続く18節で、「しかし・・・」と言います。
「しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません」。
私たち人間を救うのは律法ではない。パウロはかつてのユダヤ教の教師として律法に精通していたと言えます。そのパウロの口を通して証しするのです。聖霊によって導かれること、そして聖霊によって出会った友を自分のように愛すること、それが本当に自由に生きることだというのです。
続く19節以下21節まで、「肉の業」として、いわゆる「悪徳」が連ねられていきます。パウロは「以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません」と何度も警告します。彼の言葉には「前にも言っておいたように」(例:1:9など)いう表現があります。彼がいく度かにわたってガラテヤを訪れていたことがわかるのと同時に、この警告を受け入れないならば、神からの祝福を受けることができないのだとするのです。神の国はこれらの事柄や価値観とは正反対にあり、22節以下に挙げられていくことが神の国を言い表すこと、構成するものだというのです。23節の終わりに「これらを禁じる掟はありません」とパウロは書いていますが、22節以下に記されたいわゆる「美徳」に反対するような律法は見当たらないのです。
私たち人間は「肉」をともなって生きています。「肉」という表現、特にパウロの手紙やヨハネによる福音書に多用されますが、霊(聖霊)に対立するものとして使われています。人間は聖霊によって新しく生まれ変わらなければ、「肉の人」であって罪によって死すべき存在だとされます。
私たちが生きていく上で、絶えず苦しみを受けます。また欲望が尽きることがないのです。今、ここにおられる皆さんの中にも現在進行形でこのことに直面しておられる方がおられるだろうと思います。誰も知り得ない悩みを抱えて、どうしようか、どうしようかと心配しておられることでしょう。パウロは高らかに宣言しました。
「キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです」。ある聖書は「その肉を、激情と欲望と共に十字架につけたのである」(青野訳)と訳しています。
自分にいわれのない圧力がかけられた。また自分の中から湧き出てくる不遜な思い、私たちが肉を保つゆえに、日頃感じているような「闇」の部分。この闇を一切合切、十字架に掛けられて主イエスと共に、私たちも十字架に掛けられることによって、この「闇」は滅ぼされたのです!
パウロは今日の箇所の終わりのところでこう言います。
「わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう」。
この冒頭に「もし……」という言葉を付け加えるとよいかもしれません。「もし私たちが聖霊によって生きているのなら……」肉によってではなく、聖霊の実である「美徳」によって生きていく、という意味です。
先週私たちの教会では教会総会が開かれて、新年度の宣教方針等が承認され、また新たなスタートを切りました。総会で承認された年間聖句につきましては役員就任式が行われる再来週の礼拝でお話しする予定ですが、今日私たちはここから聖霊によって出発したいと思うのです。本日の聖書日課には選句されていませんでしたが、この次の26節には大切なことが書かれています。「うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみあったりするのはやめましょう」とパウロは記しています。
冒頭の13節に戻りますが、
「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい」。
いのちの与え主、造り主なる神は人間に自由意志を与えました。それは罪によって滅びるのではなく、善のために用いるよう私たちを生かしてくださっています。