「熱心と熱狂の違い」ヨハネ12:12-19 中村吉基

創世記22:1−18;ヨハネによる福音書12:12-19

街を歩いていて、電車の中でも、カフェの中でもあらゆるところで、十字架のネックレスやピアスをした人を見なけないことがないほどに、私たちにとってそれは「ふつうの」光景となっています。しかしどうでしょう。死刑のために使われる首に巻くワイヤーやギロチンだったら身につけてみたいものでしょうか。十字架もまた死刑の道具です。

韓国で出版された『168の十字架』という書物は日本でも翻訳されましたが、世界中の教会やキリスト教団体などで用いられている十字架が168も紹介されているたいへんユニークな本です。そこにもいろいろな十字架が出てきますが、2000年前のイスラエルで極刑の道具、死刑執行に使われた十字架の恐ろしさはあまり伝わってきません。ローマ帝国では315年に十字架刑は廃止されました。死刑執行する側のほうでもこの十字架というのは残忍なものと映ったのでしょう。

2000年前に誕生した最初の教会は、主イエスの「死と復活」を語り、伝えました。教会は最初の頃から主イエスの受難を思い起こし、復活を祝うことをしてきました。それから300年も経ってようやくクリスマスの祝いをするのです。古今東西、世界中の人を見回しても、主イエスほどこんなに「死」がクローズアップされる人はいないでしょう。そして聖書は主イエスの「死」を私たち人間の罪のために死なれたのだと記しています。それは本当でしょうか?
簡単に言うならば、神があなたという人間を愛しているから、主イエスは死なれた。聖書の中には「愛」という言葉が数えきれないほど出てきます。分厚い聖書の言葉をひとことで集約するならば、「神の愛」を、全体を通して伝えているといってよいでしょう。パウロはこのように記しました。「キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」(ローマ5:8)。

そのイエス・キリストの十字架の死を記念する受難週が今日から始まります。
この受難週の最初の日曜日を「棕梠(しゅろ)の主日」と言います。主イエスがエルサレムに迎えられたという出来事を記念します。
12節を見ると、

祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、なつめやしの枝を持って迎えに出た。

とあります。何の祭りか。過越祭と呼ばれるユダヤ教最大の祭りです。エルサレムに集まっていた大群衆が、死んだラザロを復活させた(11章)主イエスがエルサレムにやってくるという噂を聞きつけて、主を一目見ようと集まり始めました。口語訳聖書では「しゅろ」となっていましたが、イエスの時代のエルサレムにはしゅろはなかったといわれています。その後翻訳された新共同訳、聖書協会共同訳でも「なつめやし」となっています。植物の種類が問題となっているわけではありません。マルコ福音書では「枝」と記されます。このようになつめやしの枝を持って迎えられる人というのは、戦に勝った勝利者でした。しかし主イエスは何の戦をしたわけでもありませんでしたが、王として迎えられるときの習慣でした。つまり「繁栄」「勝利」の象徴でありました(レビ記23:40、黙示7:9参照)。そしてこの群衆たちは、ただなつめやしの枝を手に持っていたのではなくて、叫び続けました。何を叫んでいたのか。それが13節に記されてあります。

「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、/イスラエルの王に。」

この叫びの言葉は詩編118:25,26、ゼファニア書3:15などを組み合わせた言葉であろうと言われています。そして「ホサナ」という言葉は「主をほめたたえよ!」という意ですが、「主よ! 救ってください」という意味もあります。過越祭に集まっていた大勢の群衆は威勢もよく、「万歳」というような意味も含まれると思います。ローマ帝国やユダヤの宗教指導者の支配や権威的な振る舞いに辟易としていた人たちの不満が爆発し、主イエスに救いを求めたのでしょう。当局の関係者は神経を尖らせて、暴動などにならないように見張っていたことでしょう。群衆は「主の名によって来られる方に、祝福があるように/イスラエルの王に。」と言いました。「主の名によって……」とは救い主を意味し、エルサレムに巡礼に来る人びとに祭司が祝福をする言葉です。群衆は明らかに主イエスのことを「イスラエルの王」として迎えようとしています。

主イエスはこの時、ひとつの行動に出ます。14節です。

イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった。

今日はじめてこの物語を聴いた人があるかもしれませんが、私たちの知っている他の福音書のエピソードは、弟子たちに子どものろばを探しに行かせるというものですが、ヨハネ福音書は主イエスご自身がろばの子を見つけられたと記しています。しかし、ヨハネはろばにお乗りになった主イエスだけをクローズアップしようとしてこのように描いたのでしょう。
ここで注目すべきなのは、戦に使われる軍馬でもなく白馬でもなく、子どものろばだったという事実です。エルサレムにいた群衆は、ローマとユダヤという二重の政治的支配に苦しんでいた民衆でありましたから、政治的な指導者、新しい王として主イエスを迎えました。しかし、その新しい王は決して勇ましいとはいえない小さなろばにまたがって登場しました。群衆は拍子抜けしたことでしょう。しかし、この新しい王メシアの登場は、(今日の礼拝の招詞にも選句しました)旧約聖書のゼカリア書9:9で預言されていたことであったのです。それが15節です。

「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる、/ろばの子に乗って。」

「シオンの娘」というのはエルサレムの全住民を表す詩的な表現です。ゼカリア書は若干表現が違っていますが、ヨハネがそれを受け取って解釈し直した部分もあります。しかし、ゼカリア書でも強調されるのは「ろばの子」という表現です。軍馬ではなくろばの子に乗ってくる新しい王とは、武力に頼らないで、平和をもたらす王の象徴です。このような王はそれまで歴史上にはいませんでした。けれども、自分たちに平和をもたらす新しい王が、いつの日かエルサレムにお越しになる。その未来の喜びを語っている預言がゼカリアの預言なのです。

ろばは荷物を運ぶために、また農作業のために使われたおとなしい動物です。これは主イエスが優しく、謙虚な方であることを表すものですし、暴力的な仕方ではなく、平和のうちに地を受け継ぎ、そして最終的に主は死をも打ち負かしていくのです。
ろばには、背中に十字の印が入る唯一の動物といわれています。聖書の記者にその意図があったかどうかわかりませんが、主イエスがお乗りになったろばにもあったかもしれません。これから十字架の道を歩む主の歩みを象徴しているといってもよいでしょう。
けれども、16節にありますように主イエスの弟子たちはこの時、この事の意味が理解していませんでした。それはここにいて叫んでいた群衆も同じでした。群衆は彼らの理想とする王さま、期待したことをしてくれそうな王のイメージを勝手に主イエスに当てはめて熱狂的に歓迎しているのです。彼らの頭の中では、新しい王は軍馬に乗って、手下もいっぱい引き連れて、凱旋パレードをするような勝利者としての王です。しかし、群衆の熱狂の中に登場したのは、目立たないろばの子どもに乗ってエルサレムに入る王でした。群衆の歓声に手を挙げたりしなかったかもしれません。それはそれは地味と言うべき王の登場でした。この時主イエスは、エルサレムにまっすぐに進んで行かれました。

ヨハネは、群衆がこのように熱狂して主イエスを迎える理由をこう記します。17、18節です。

イエスがラザロを墓から呼び出して、死者の中からよみがえらせたとき一緒にいた群衆は、その証しをしていた。群衆がイエスを出迎えたのも、イエスがこのようなしるしをなさったと聞いていたからである。

「このようなしるし」と言うのは、主イエスが、一旦死んでしまったラザロという男を蘇生させた(11章)、今日の箇所には選句されていませんが、お手元の聖書で12章の1、2節を読んでみますと、このラザロが確かに死者の中から生き返ったことがではあらためて記されています。その出来事を目撃した群衆がエルサレムでこの奇跡の顛末を語り伝えていた。それを聞いた人たちがイエスこそ勝利の王である、として熱狂的に迎えたのだ、とヨハネはここで但し書きをしているのです。
 そして、19節に主イエスに敵対していたファリサイ派の人びとの言葉が記されます。

「見よ、何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行ったではないか。」

この箇所を読む時に、他の福音書にある主イエスの「エルサレム入城」の物語とは若干違う印象を持つかもしれません。ヨハネは人間の「罪深さ」や「愚かさ」そして「軽さ」を知って、悲しくなるような思いでここを記したのではないかとさえ思うのです。このことは私たちも自戒しなければいけません。神を思う、教会を思う、他の誰かを思う「熱心」はとても良いことです。しかしそこに自分だけの思いや自分だけの利益を追求する時、また人から何かをしてもらおうと報われることばかりを考えてしまう時に、その熱心は「熱狂」に変わることがあるのです。自分自身ではなかなか気づかないでしょう。だからこそ私たちは自分で見えない、自分の闇の部分を神の光で照らしていただく必要があるのです。

熱狂的に主イエスを迎えた群衆は、その熱が冷めやらぬ間に、主イエスを十字架で死刑に処することに賛成します。この人間の変わり身の早さ、罪深さを思いながら、今日から始まる受難週を過ごし、来週は喜びのイースターを共に迎えましょう。