出エジプト記17:3-7;マタイによる福音書4:1-11
今朝の礼拝への招きの言葉(招詞)は、ヨエル書2章12-13節でした。
主は言われる。
「今こそ、心からわたしに立ち帰れ/断食し、泣き悲しんで。衣を裂くのではなく/お前たちの心を引き裂け。」
あなたたちの神、主に立ち帰れ。
神は今朝私たちにこのように呼びかけておられます。先週14日の「灰の水曜日」も今年も受難節(レント)に入りました。3月31日のイースターの前日まで日曜日を除いて40日の信仰の旅をしていきます。灰の水曜日にはここで礼拝をして受難節の扉を開きました。昨年の棕梠(シュロ)の主日に飾られた棕梠の葉を燃やして、その灰をそれぞれの額につけて創世記2:7にあるように神によって人間は「土の塵(ちり)」から創造されたことを思い起こし一人一人にお祈りをしました。もし灰の水曜日に灰を受けられなかった方は礼拝が終わりましたら前の方で祈りたいと思いますので、どうぞお越しください。
もともと受難節というのは、イースターに洗礼を受ける人たちが準備をする期間でした。古代の教会で洗礼が行なわれるのはイースターでした。なぜならば洗礼はキリストの死と復活にあずかり、新しく生まれ変わることをあらわす聖礼典です。ですからイースターの日に洗礼式が執り行われたのです。たとえば4世紀のエルサレムの教会では洗礼を受ける人は、イースターの前の7回の主日に3時間ずつ信仰の学びをしていました。それが徐々に受難節になっていきます。そして洗礼志願者たちだけでなく、一般の信徒たちもこれを守るようになっていきました。キリストを信じている者が自分の信仰生活を深く省みてキリストの死と復活にあずかるのにふさわしいものとして、新しいスタートを切る、そのような機会でした。
私たちの教会では受難節という呼び方をしていますが、日本キリスト教団内の教会では「四旬節」「レント」という呼び方で親しまれている教会もありますし、教派によってそれぞれです。しかし「四旬節」という言葉だけで言えば「40日間」を意味します。これはもともと断食の日数でした(伝統的に日曜日を除いて復活祭前の40日を数えるので、灰の水曜日から四旬節となります)。四旬節には、断食に象徴される回心=主に立ち返ること、さらには「祈ること」「節制すること」「隣人に愛の行いをすること」がひときわすすめられています。ちなみに洗礼志願者たちはイースターの前40時間の断食をしました。またその断食の期間が受難週の6日間に延長されたという記録もあります。
さて今日の聖書の箇所では、悪魔が主イエスを誘惑したことが記されています。いわば神の子イエスと悪魔の闘いであるといえます。しかし、これを注意深く読めば冒頭の1節のところに〝霊〟によってつまり神の霊(マタ3:16)すなわち聖霊によって導かれたのだとあります。私たちには理解できないことかもしれませんが、この悪魔による試練へと導いたのは聖霊なのだということです。コリントの信徒への手紙12:3でパウロは、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」とありますように、聖霊による導きがなければ、悪魔の試練を受けることもないわけです。すべての事柄は神のもとに、神の霊のもとにあるのです。
3節に「誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」というのは物質的なモノによって満たされようとする誘惑を表しています。また「石がパンになるように」とは、預言者としての主イエスを試しているものといえます。旧約聖書にはこのような話が伝えられています。預言者エリヤが戦いの後、荒れ野を右往左往していました。彼はえにしだの木の下で眠りこけてしまいます。そこに天使が現れて「起きて食べよ」とパン菓子と水とを与えられました。それからエリヤは四十日四十夜、歩き続けて神の山ホレブ(シナイ山)に到着するという者です。このエピソードもまた神の霊に導かれたエリヤの物語です。エリヤが預言者としての力を行使してパンを作り出したのではなく、神の大いなる力によって与えられたものでした(列王記上19)。
また5節以下の「悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。『神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、/あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える』/と書いてある。』
これも自分の身の安全だけを守ろう、自分さえ良ければいい、とする誘惑です。主イエスは十字架に架けられたときに、「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」(マタイ27:40)と通りがかりの人に侮辱されました。それを予告するような悪魔の言葉です。これは神殿奉仕者、祭司としての主イエスを試す言葉です。祭司は神と人の間に立って、それを執りなす役割を担っています。悪魔は、主イエスが神と人との和解を執りなす者であるならば、神に自分自身を捧げてみよ、というのです。当然、神は主イエスを助けるはずであろうし、祭司として主イエスは神の救いをそこで見せることができるだろうとするのです。この悪魔の言葉は、先ほど交読しました詩編91編11,12節に「主はあなたのために、御使いに命じて あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたをその手に乗せて運び、足が石に当たらないように守る。」との言葉に基づいて主を試しているのです。しかし、主イエスの十字架の苦難の際にも十字架から飛び降りるようなことはありませんでした。主イエスは神の子としての力を使うことなく、また御使いたちに助けを求めるようなことはされなかったのです。
そして8節以下では、「更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、『もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう』と言った」とあります。この世における富と権力を自分の手中におさめようとする誘惑です。つまりこれは王としての主イエスを試した言葉です。
主イエスは「退け、サタン」と言われました。先ほど引用しました詩編91編13節には「あなたは獅子と毒蛇を踏みにじり 獅子の子と大蛇を踏んでいく」と悪魔は蛇になぞらえられることがありますが、悪魔はいつかは神によって滅ぼされることを表しています。
主イエスは「退け、サタン」と言われましたが、これは今日と同じマタイの16章にこのようなエピソードがあります。主イエスがやがてご自分に降りかかる受難を告げ知らせた主イエスに対して弟子のペトロは「主イエス、あなたは救い主です。そんなことを軽々しく口に出さないでください」と主イエスをちょっと引っ込んだところにお連れしていさめる場面がその時に主イエスはペトロに言われたことば「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」という言葉とこの「退け、サタン」という言葉は同じです。荒野での誘惑の記事は主イエスの活動の最初に位置づけられていますが、もうすでにここでは主イエスが十字架の道を歩むことがうっすら少しずつ示されています。
この箇所に3つの誘惑すなわち、(1)物質的なモノに対して。(2)自分のいのちに対して。(3)富と権力に対して。これらの誘惑は私たちにも当てはまることなのです。
もちろん、神から与えられたいのちや自分の置かれている環境などを大事に思うことはすばらしいことですし、食物のことも大事、健康のことも大事だし、お金もなければ困り果てるでしょう。すぐにそれらがサタンの誘惑であると断言することはできません。しかし、これは仏教の言葉になりますが、私たちが「執着」しすぎることはサタンの誘惑であり、悪に結びつく可能性があると言わねばならないでしょう。それを退けることを通して、主イエスが私たちにお示しになりたかったことがどんなことなのかが、ようやく解ってくるのです。
主イエスはヘブライ語聖書(私たちで言う旧約)によく親しんでおられました。ここで悪魔への答えは、すべて申命記に記されています。主イエスがサタンに答えられる『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』(申8:3引用)というのはあのモーセに導かれてエジプトを脱出して40年間荒れ野の旅を続けている最中に、イスラエルの民に与えられた「マナ」についての言葉です。マナが与えられたのは、イスラエルの人びとがマナという物質によって生きるためではなく、神によって生きることを教えるためであったのです。7節の「あなたの神である主を試してはならない」(申6:16引用)は、やはり荒れ野での旅の途中にイスラエルの民が、荒れ野でのどが渇き、おなかが空いて神を恨んだり、モーセに並べ立てることがありました。私たちもいつも神に向かって「ああしてください」「こうしてください」と自分の願望ばかりを並べ立てて、神を試すようなことをしていないでしょうか。そして10節の「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」(申6:13引用)は、イスラエルの人びとが、神の約束してくださった地で生活が安定して、豊かに満たされるようになると、周辺諸国の異教の神々に拝むことのないように、というものでした。
私たちはこの受難節に、この主イエスからのメッセージをどう聴いたらよいのでしょうか。今日の箇所で主イエスが行ったことをよく見て、これを一言で言うならば、「神の言葉の宣言」です。主イエスは神の子としての力をここで見せつけるようなことはされませんでした。主イエスは本当に底辺に立って、私たちが受ける試練と同等のものを味わわれたからこそ、試練の中にある人を助けることができるお方なのです。
サタンはこの現代の、私たちのうちにも存在しています。サタンは私たちが空腹なのを知っています。サタンは私たちが誰にも打ち明けたことはないけれども、いつか自分が死んでしまうことに怯えていることをよく知っています。そして自分さえ良ければという醜い心、自分さえ豊かであれば、自分だけが人から支配されるのではなく、大勢の人を支配したい、「自分が」「自分が」……という心の内側にある欲望、ちょっとした心の隙間にサタンはすかさず入り込んできます。私たちは「主を拝み、ただ主に仕えよ」という主イエスがサタンに浴びせかけた言葉を純粋に生きることが求められています。
今日の箇所が私たちに教えることは、「神の言葉に従う」ということです。
いつも私たちの心を神に向けて、神の言葉に導かれ、養われることをこの受難節に私たちの課題としたいと思うのです。今週も主イエスと結ばれて、主イエスを一人一人の心にお迎えして、主とともに、主の道を生きる者になりましょう。神と人とに愛される者になりましょう。