出エジプト記20:1-17;ヨハネによる福音書8:1-11
今日の箇所では、姦通をしていた女性が現行犯で捕らえられ、主イエスの前に引き出されてきます。古代のイスラエルにおいて配偶者以外の者や、または婚約者と性的関係を結ぶことは律法で厳しく禁じられてきました(独身者と関係を結ぶことはキリスト教の時代になってから禁じられました)。ユダヤ人たちの法(ミシュナー)によれば、姦通をした者は絞殺刑に処せられました。石打ちの刑(死刑)は、婚約していながら罪を犯した者への刑でした。ですからこの女性は結婚する前だったと思われます。もちろん男性のみならず女性も同罪となったのですが、なぜかこの場面には相手の男性は出てきていません。どこへ行ってしまったのか、見逃されたのか、どこかへ隠れてしまったのか、真相はわかりません。もしかしたら男のほうの策略に引っかかって捕らえられたのかもしれません。しかし、この状況から見て当時も女性に対する厳しい見方や差別があったと思われます。
実はこの女性を主イエスの前に引っ張り出してきたファリサイ派、律法学者たちにはもう一つの思惑があったのでした。それは現場で捕らえられて、何を言っていいのか判らないこの女性をうまく利用して、イエスならばどうこれに対処するだろうか、ファリサイ派、律法学者たちはイエスを貶める道具としてこの女性を引きずり出してきたのです。
先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。(4,5節)
「あなたはどうお考えになりますか」。明らかにこれはモーセを通して神が命じたことに対して主イエスがどのようにお答えになるのか、という挑発でした。主イエスがこの律法を否定したならば、律法を授けた神をも否定するのだと彼らは執拗に迫ってきたのです。彼女を処刑すべきかどうか。けれどもイエスがこの女性をゆるしたならば完全に律法違反になり、石打ちの刑を処するように言うならば、これまで神のゆるしのメッセージを説いてきたイエスの教えには反するのです。ファリサイ派、律法学者たちはその盲点を突いてきたのです。
たとえば皆さんがこの女性のいた「真ん中」に立たされたならばどう感じるでしょうか。助け舟となる言葉も一切聴かれない、無言のまなざしは何よりも堪えがたいはずです。主イエスがここで語る言葉の一つひとつはとても重みをもったものです。これはこの女性だけに向けられているのではなくて、主イエスと女性の近くにいて何かと言葉を発してくる律法学者やファリサイ派の人々、それから少し離れたところで言葉を発せずに高みの見物を決め込んでいる民衆、この物語を読む皆さんは、今この中のどこにいるでしょう。群衆の中にいるでしょうか? 律法学者でしょうか? はたまたこの女性でしょうか? 今、皆さんがこの時代に飛び込んでいったらどこにいるでしょう。
厚生労働省のキャリア官僚だった村木厚子さんという方が逮捕されたのは、2009年6月のことでした。実態のない団体に障がい者団体の証明書を発行するよう部下に指示した、ということで虚偽有印公文書作成・同行使という容疑でした。のちに大阪地検特捜部のでっちあげ、まったくの冤罪であることがわかるのですが、村木さんにとっては晴天の霹靂、寝耳に水のことであったでしょう。村木さんが心配したのは家族のことです。夫もそうですが、まだ若い2人の娘さんが、下の方は高校生だったそうですが、学校や職場や近所で好奇の目にさらされないか、いじめられないか、それは親であれば心配するのは当然でした。しかし夫も2人の娘さんもお母さんの潔白を信じ続けました。弁護士を通じて渡された家族から手紙には「がんばれ」という言葉に添えて、「自慢の母親」だ、というようなことが書いてあって、ずいぶん励まされたそうです。この時は、ご家族だけではなくて、村木さんのことを知っている仕事仲間や友人たちなどから多くの人が支援をして、村木さんの無罪を願っていたそうです。本人やご家族にとってこんなに嬉しいことはなかったはずです。
一方的な見方、今日の箇所に出てくる女性を取り囲んで、さげすみの視線を浴びせた、無言の人々に似ています。テレビのニュースなどを見ても、冤罪事件などで、当初は犯人として捕らえられ、本人や家族をまるで極悪人のように扱う人たち、私の周囲にもこういう人がいました。勤務する会社で勝手に健康診断の項目にない検査を秘かに実施され、エイズにかかっていたことがわかり、別の理由を何かとつけられ解雇されたのです。私たちの周囲にも大小に関わらず、残念ながら、もうすでに「石は投げられてしまった」事実が数え切れないほど起こっています。
さて、聖書の話に戻りますが、ここには主イエスの教えを聴きに来ていたたくさんの民衆がいました。彼女は見世物のように真ん中に立たされていたわけですが、民衆も主イエスがどのようにしてこの女性を救うのか、固唾を呑んで見守っていました。6節はこう記しています。
イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。
この行為が何を意味しているのかは判りません。主イエスが文字を書かれるというのは聖書の中でここだけにしか出てこないことです。実は当時のユダヤ人たちは死刑にする権限がなく、ローマ総督がそれを持っていました。律法学者たちはイエスが石打ちの刑を無視して、律法を破るのか、はたまた刑を執行してローマ帝国に反逆するのか、ということにおいても、彼らは虎視眈々とイエスを陥れようとしていたのです。
そこで主イエスはもう一度立ち上がって言われました。
あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。(7節)
このように言ったあとで、再び主イエスはかがみこんでしまいます。しかし、この主イエスのひとことはそこにいたすべての人の心にズシンと響きました。皆がそれぞれ自分自身を見つめ直さざるをえませんでした。好奇の目をもって女性を見つめていた一人ひとりのうちに、自分も裁かれるべき罪をそれぞれに持っていることを思い知らされました。それはだれも知らないかもしれない、けれども神はご存知であるはずの自分の犯した罪を思うときに、彼らはこの女性に石を投げることなどできませんでした。一人、また一人と立ち去っていったのです。9節によれば「年長者から」立ち去ったと記されてあります。人生経験の長い人から自分の歩んできた道を振り返った時に悟ることが多かったのでしょうか。やがてそこには主イエスと女性の2人だけになってしまいました。そして主イエスご自身もまた彼女を罪に定めないと言われました。
わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない(11節)。
この「罪に定めない」という言葉には二つの意味が込められています。まず一つ目は女性のしたことを良いと認めているわけではありません。主イエスはこの罪を見逃して、許可しているわけではありません。しかし主イエスはこの女性がゆるされたこと、神にいつも愛されていることを思い知って、精一杯に神から与えられた「いのち」を存分に生きてほしいと願われたのです。ですから「許す」のではなく、「ゆるした」のです。石打ちの刑によって死ぬことよりも、いのちを全うしたほうがいい。わたしはあなたに精一杯生きてほしい、そういう主の愛に満ちあふれた言葉なのです。もし群衆がイエスの「石を投げなさい」という言葉に呼応していたならばどうだったでしょう。この女性だけではありません。主イエスご自身にも石をぶつけられたことでしょう。私はここに十字架の予兆を見るのです。主イエスもこの女性のためにいのちをお捨てになる覚悟をしておられるのです。
二つ目です。主イエスはこの女性の過去を問わないのです。つまり過去に起こってしまったことよりも今日からの生き方に値打ちがあるのだ、と見ているのです。主イエスをこの世に遣わされた神は人間が再出発するチャンスを与えてくださる神です。「行きなさい、これからはもう罪を犯してはならない」(11節)という主のみ言葉には、「これからはもう神を悲しませる生き方から離れて、神の愛に全身を委ねる生き方を選び取りなさい」という私たちを救い、力をくださる意味が込められています。
私たちは裁きの言葉ではなくて、主イエスのゆるしの言葉に聴かなければなりません。実はこの場面には実に大勢の人々がいましたが、11節の主イエスのゆるしの言葉を聴いたのはたった一人だけ、この女性でした。なぜたったひとりだけだったのでしょう。9節の終わりをご覧ください。「女が残った」。イエスを有罪にすることができなかった律法学者たちもこの時もう立ち去っていたのです。この女性だけが主イエスの前から立ち去らなかったのです!
私たちも主イエスのゆるしの言葉を聞きたいのならば、そこにとどまっていなければならないのです。残念ながら主イエスの目の前から立ち去り、信仰を捨て、教会を捨てたものにはゆるしの言葉は届かないのです。私たちは主のもとを立ち去ってはいけません。そのままの自分で主の前に留まったものがゆるしの言葉を聴くことができるのです。
聖書を開いてみて、この記事をよく見ると括弧で閉じられていることに気がつかれるでしょう。この物語が聖書に正式に入るのに1000年もかかったのです。5世紀以前の写本にはこの物語が収録されていないのです。この女性が簡単にゆるされてしまってよいのだろうか。また、「もう罪をおかさない」という証拠もないというような問題もあったとされています。いずれにしても写本と共に伝え続けられた物語なのでしょう。でも私たちがこれを読めることはさいわいだと思うのです。イエスらしさ、イエスの温もり、温かさ、そして神の愛が伝わるような物語だからです。裁きとゆるし、今日私たちも主のゆるしの中で生かされています。